鴛鴦茶で休息を。

「珈琲にしますか。それとも…紅茶に?」

御三時のスイーツを皮切りに、街中のレストラン、果ては移動中の旅客機内でさえ、我々はこの選択をこれまで何回と繰り返してきた。あらゆる地域で「文化」として根付いた飲み物の選択には思わず腰も重たくなる。

といっても接客係を待たせるわけにもいかず、少しばかり躊躇しながら、およそ7 : 3の比率で「珈琲で。」と短く答える。答えた後で、瞬間「あ、いや…紅茶(珈琲)にすべきだったかな…」という想いが脳裏を過ったりするものだが、時既に遅し。目の前に出されたマグからうっすら漂う湯気、グラスの表面で次第に大粒になってゆく水滴を眺めながら、ぼんやりとする。

数年前、香港で働く兄のもとを家族で訪れたことがある。港で8段積される40フィートコンテナ。驚くほど細く空高く伸びる建物と、建設途中なのかそれらを取り囲む無数の竹材。けたたましいクラクションに、女人街の熱気。我々よりもずっと小さなその地域は、一国二制度という特殊な環境下にありながら、英国人のアイデンティティを失わずに逞しく生きているように感じた。

英国と異なり、食べ物はたいてい旨い。しかし食器はお世辞にも衛生的とは言えない。煮沸用のお茶で、箸や湯呑みを洗いながら「最初から熱湯で消毒しておけば良いのに。」といつも訝しく思うのだが、香港においてそれは明確に客の仕事なのだ。そんな大胆さに触れると、些末な課題やアプローチなど良い意味でどうでもよくなり、「ああ、香港で生きるというのはこういうことなのか。」と、何となく腑に落ちた気がする。

直前の日本のメディアにより学生運動の前後で緊迫する様子ばかりがありありと報じられていたが、それは何十とある枝の1本に色づく1枚の葉に過ぎない。どの地域においても、現地・現物、行ってみなければ分からないな、とまた妙に納得した。

珈琲と紅茶。このありふれた二者択一について、香港人は大胆な折衷案を作り出した。お土産に買った「鴛鴦茶」の味は決して旨いというわけではなかったし、珈琲はブラック、紅茶はストレート派の私にとり、甘すぎる点も大きなマイナスポイントだ。だからこそ、2倍の工数を割いて、日常的に淹れたりすることもないのだが、物事の新たな視点と彼らのうちに秘める何とも言えない活力や前向きさをこの身に取り込みたい時、「えぇい!」と目分量で作る1:1の鴛鴦茶をぐいっと流し込む。

いつまでも飲み慣れないその味は、いわば儀式のようなものだ。その味が私好みの「シュガーレス」にリアレンジされている点について、亜流だと現地の方のご意見もあるかもしれないが、それこそが「鴛鴦茶」の、香港人のアイデンティティの本質なのではないか、とこじつけてやり過ごすことにしたい。

そのようなことを考えた刹那、空になったマグがふと目に留まり、「杞憂か。」とまたぼんやり考え、ふっと笑ったりするのだ。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)