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レズビアンの私がウェディングカメラマンになったのは

私がウェディングカメラマンを志すようになったのは、ロマンチックな欲からだった。レズビアンである私がなぜウェディングカメラマンを?と思われる程度に、日本は緩やかに自転している。パートナーシップ制度こそ拡大しつつあるが、同性婚が全国に広がるのはまだまだ先のことだろう。

結婚の2文字を前に、後ろめたさを感じるマイノリティは少なくない。物心がついた頃から結婚願望のない私ですら、全くないといえば嘘になる。それならなぜ進んでウェディング業界に?とさらなる疑問を抱かれるかもしれないが、私は決してこの業界を希望して入ったのではない。

人生の1ページを紡ぐ手伝いがしたかっただけだ。

…私は30代を機に、ホテルに所属する写真館に勤めることとなった。おもてなしの精神を重んじる私にとって、ホテルは憧れの職場である。一時はホテルのフロント業務をしたいと思ったこともあったが、飲食業の深夜リズムさえきつかった私は早々に諦めてしまった。そんな私が、思いもよらぬ形でホテル勤めとなったのだ。

パリッと背筋から音がするような仕事が好きだ。学生時代に経験した劇場の蛍嬢では、暗がりに席番を逆に数えながらの案内に毎度胃を痛めたが。うやうやしいおじぎも、指し示しも、貼り付けたような笑顔を浮かべることも嫌いじゃない。あろうことか私は本来の志を半ば忘れ、ホテルに勤めているという事実に浮かれた。人間は単純である。

肝心のカメラマンの方はというと、毎分毎秒が緊張の連続だった。人生は一度きりであるのと同じで、結婚式も一度だけだ。シャッターチャンスを逃したら最後、アルバムに収めるカットがなくなる。否そんな失敗は決して許されない世界だった。リハーサルは通しで全部やってくれ、キスシーンは長くあれ、リングガールはどうかお利口に。数え切れないほどのことを心から願った。

フルサイズのカメラを振り回すのは初めてだったため、筋肉痛の戦いであったとも言える。毎回終わるとどっと疲れた。ファインダーを覗く右側の眉は、いつもまぬけに眉頭が欠けた状態になっていた。

しかし眉頭が欠けるのは勲章のようにも思えた。床を這いつくばってベストな角度を探したり、足場の危うい高台から狙ったことも沢山ある。かかとの鳴る靴を履いてきてしまい、教会の床をストッキング一枚で駆け回ったこともあった。全身黒づくめで黒子に徹する私の足を、参列者の中には気付いた人がいただろうか。そんなことをふと思う。

ひんやりとしたつややかな床を感じる暇はなかったけれど、特別な幸せオーラというやつは毎回ひしひしと感じられた。思わず惚れ惚れしてしまうほど良い表情が撮れて、自分の腕がまんざらでもないと勘違いしてしまうほど。彼と彼女、そして参列者は良い顔をうかべるものだ。

もともとなかったほうではあったが、後ろめたさがむしろ消えつつあるのを感じた。それはなぜなのか、私にも分からない。知らず知らずのうちに、何かを噛み砕いたのかもしれない。

同性婚のニュースが世間に出始めた頃だった。

どうやら私は、同性カップルのウェディングカメラマンをしたいと思っているようだ。辺りを窺うように呟くと、賛同してくれる仲間もいた。しかし世界がウイルスに全て飲み込まれてしまった今、私は自宅の一室にいる。今の生活は満ち足りており不満はない。

私が再びウェディングカメラマンを務める時が来るとするならば、仲間の結婚式を堂々と行える時かもしれない。あのいつかの新郎新婦のように、彼女たちの幸せオーラを私はむせかえるほど感じたいのだ。

レズビアンの私がウェディングカメラマンになったのは、きっと、未来のお告げに違いない。

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