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飢えた狼と〈高級菓子〉

書評:行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』(岩波文庫)

これまで、いろんなジャンルの本を読んできた。その幅の広さには自負もあるが、エッセイというのは、なぜかあまり読んでこなかったし、読みたいとも読まねばならぬとも思わなかった。
その理由が、本書を読むことで明らかになったと思う。と言うのも、私なりに、「エッセイ」というものが、どんな特質を持った文学形式なのかがわかったからである。

ちなみに、編訳者が「解説」にも書いているとおり、本書のタイトルは「コラム」となっているが、「コラム」というのは「エッセイ」の中で、比較的短く書かれた囲み記事的なものを指すので、ここでは「エッセイ」とは何かについて論じたいと思う。

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さて、前記の「解説」で編訳者は、本書所収のエッセイの特徴を次のように語っている。

『 この四名のエッセイは、イギリス流のユーモア、皮肉を最大の特色としている。身近な話題、新聞をにぎわせている事件などを取り上げて読者の注意を引きつけ、それから徐々に、人間性の面白さや嫌らしさなどを論じてゆく。読者を啓蒙しようという意図はあるにしても、それを前面に出さない。題名に用いた(…)『たいした問題じゃないが』(…)が、作者の姿勢をよく示している。読者に劣等感を与えないように、控え目に学識を示すとか、人間の弱さに温かい目を注ぐとか、自分をダメ人間のように見せるとかして、常に読者の目線に立つことを忘れない。複眼で物事を見て、偏った見方は極力避ける。深刻なこと、世界政治を語っても、大上段には構えず、斜に構えるのを好む。結果として、親しみの持てる、身近な、私的(※ パーソナル)なエッセイになっている。』(P225)

こうした特徴から分かるのは、「エッセイ」とは、知識層(インテリ)ではない、一般層を狙った「知的読み物」であり、基本的には「商品として娯楽作品」だということである。だからこそ、読者に「好感」や「仲間意識」を持たれることを、第一義としている。

言い変えれば「エッセイ」とは、「研究論文」「評論文」「批評文」のような、一般読者を置去りにしてでも探求的にテーマを突き詰めようとする「学術・研究論文」でもなければ、「大衆向け娯楽小説」ほど「知的要素を含まない(必要としない)娯楽作品」でもない、適度に知的要素を含みながらも読者に専門的な知識や特別な読解力を求めることなく、それなりに知的刺激を与える、楽しい読み物。つまり「批評的要素を含む娯楽作品という、折衷的文学形式」であり、喩えて言えれば「ちょっとした知的洞察をユーモアとアイロニーとペーソスで包んだ、口溶けのよい高級菓子」とでも呼べるような文学形式なのである。

では、どんな読者が、このような文学形式としての「エッセイ」を楽しむのだろうか。
それはまず、専門的で難解な文章まで読む気はないが、しかし「大衆向け娯楽小説では、子供っぽすぎて物足りない」と考えるような「中間的・中層的読者」だと言えよう。

「エッセイ」における「知的」要素は、専門的な学術・研究文書、あるいは人間の実存を掘り下げることを目的とした文学作品(いわゆる純文学)などにおいては、すでにくりかえし語られ、いまや凡庸・当たり前の認識になったものでしかないのだが、日頃そうしたものと接しない読者層にとってなら、それらのエッセンスも「新鮮」に映ろう。また、その程度のものでなければ、一般読者層には理解できないし、受け入れられないのだから、「エッセイ」に込められた「知的」要素とは、意識的にそのレベルに押し止められてたもの、つまり専門的な学術・研究文書や純文学などを読まない読者にとって、それが「ちょうどいい具合」のものなのである。
自らは(専門家のように)労せずして「人間通・社会通の知的な人間」であると思わせてくれるのだから、こんなにありがたい「娯楽作品には見えない娯楽作品」は、またとないのである。

しかし、こうした「手ごろな知的読み物」が、ある種の読者からは「物足りない」と見られてしまうのも、必然の事態であろう。
どんな読者かと言えば、それは「飢えた狼」のごとき読者だ。「食いでがあり、歯応えがあり、身につく獲物」が欲しい。言い換えれば「徹底的なものが読みたい」「非凡なもの、未見のものに接したい」と考えるような貪欲な読者であり、そんな読者には「お上品な高級菓子」は、少々物足りないのである。

そして、こうした読者には、2つの方向性がある。ひとつは、もっと知的に徹底したものを読みたいと望む探究的読者と、もっと純粋に娯楽に徹したもの、浮き世の憂さを忘れて酔わせてくれるような娯楽作品(小説)が読みたいと望む快楽主義読者だ。もちろん、その両極端を同時に欲するような貪欲な読者もいる。

つまり、「エッセイ」を好んで読む読者というのは「中間的・中層的読者」であるのに対し、それを「物足りない」と感じる読者とは、左右両極端を指向するタイプの読者だと言えるだろう。
「中間的・中層的読者」というのは、その場に満足しているから、同じような形式の作品に満足する傾向がある。いやむしろ、概知のことが書かれているのを確認して満足を覚えるタイプだと言っても過言ではなく、新しい世界を開拓し、未知に直面しようなどとは考えない、保守的な現状追認タイプだと言い換えても良い。
一方の「遠心的な探究的読者」は、「中間的・中層的読者」が楽しいと感じるものこそが、すぐに「退屈」だと感じられてしまうタイプなのである。

で、言うまでもなく私は、後者の「遠心的な探究的読者」であり、知的な部分では、「エッセイ」のような、読者の知的レベルに合わせて、筆を加減按配するが如き書き方に不満を感じ、また、娯楽作品としても、娯楽に徹せず中途半端なところに不満を感じてしまう。まさに「書くなら、どちらかに徹底しろ」と、その「生ぬるさ」に苛立ちをおぼえるタイプなのである。
だから私の場合、読み手の立場としては、「エッセイは、ぜんぜんダメ」ということになるのだ。

しかし、これはエッセイの「書き手」を、いささかも侮るものではない。
エッセイストは、本当は、一般読者層がついてこられないような専門知識や高い教養や微妙で深い洞察を持ち、また書こうと思えばそれを書くことも出来る力を持ちながら、しかし、あえて読者層の能力・背丈に合わせて、巧みに筆を矯め、頭を低くして、「技巧的」に読者が安心して楽しめるようなものの枠内で書いているのだ。つまり「エッセイ」とは、学術的あるいは芸術的な自己表出ではなく、プロの物書き(商業作家)の仕事として、あくまで読者の満足こそを優先した、じつに自己抑制的で立派な手技だと言えるのである。

したがって、私は今後も、あまりエッセイを読みたいとは思わないのだが、しかし、本書所収の作品のように、高度な知性と洞察に裏打ちされながら、しかしそれをそのまま出すことをせず、巧みに抑制コントロールして、広く読者に満足を与える文章に仕上げる、というテクニックなら身につけたいものだと思う。
つまり、エッセイを読みたいとは思わないが、エッセイが書けるようになりたい、とは思うのだ。

見てのとおり、私は考えたことをそのまま率直に忌憚なく書いてしまうタイプであり、そのことによって、読者の不興を買ってもかまわないとさえ考える人間だ。読者がどう思おうと、書く価値のあることはハッキリと書く、というのが私の信条なのだが、しかし、書こうと思えば、巧みに自分の本音や洞察の一部を隠しながら、読者をコントロールして楽しませるような、ある意味で意地悪で不正直な文章も書いてみたいという「表現的な欲」も否定できないのである。

しかしまあ、やっぱりそれは、性格的に無理だろう。

初出:2019年11月4日「Amazonレビュー」

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