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「幸福」と、「幸福度」は別物

年収800万を境に、収入の増加と幸福度の比例関係は頭打ちになるという。

この話を聞いたとき、まっ先に思い出したのは、某大手ストックフォト企業と契約するときに受けた説明で、広告業界が描く理想的なライフスタイルイメージの年収がたしかそのくらいだったなあとというおぼろげな記憶だった。

消費社会がバラまいている「あたりまえの幸せ」「ささやかな暮らし」とは、パートナーがいて子ども(とペット)がいる、年収800万の核家族世帯を指すのだろう。

もしも、自分なりの基準を持たずに消費社会の垂れ流す広告を浴び続けるなら、人はそれ以下の生活をしているとき、「足りない」と感じてしまう。

だから、800万が最も幸福であり、それ以上は「モデル」がないので、動機もないから天井になる。そう、理解した。

これは、あくまで私の仮説でしかない。けれども、もしそうなのだとしたら、広告洗脳の成功具合は相当なものだろう。だって、実際世帯収入が800万なくても楽しそうに過ごしている人はいくらでもいる。

わたしもないけど、人生には楽しい瞬間がいっぱいある。道端の看板が色褪せして、変な文章に読めちゃったときとか、最高におもしろい。

でも、それは気晴らしか頭のネジがゆるんでるだけで、幸福とは言えない、という意見もあるだろうし、もっともだと思う。

血を分かちあう家族と暮らしながら、「道端の古看板」を日々の楽しみの例のトップに挙げるような人間の意見は、全く信用に値しないと判別できる感性は、極めて正常だ。

ただ、わたしは「楽しい瞬間」の話はしたけれど、「幸福」については触れていない。

わたしは、「幸福」を分かち合っている目の前の誰か以外に「私は幸福です」と宣言することに、文字面以上の不純物が混じっているのを自分自身に感じるし、

収集して定量分析しようとすること自体が、頭のネジを締めすぎて、ネジ穴が潰れてしまった状況なんじゃないかって思っている。

そもそも、「幸福」を、アンケートでポジティブ感情とネガティブ感情を「自己評価」させてポジティブ感情が多かったらその人は「幸福」だって定義することに、どれだけの人が同意するだろうか?

ここは、「100万回生きた猫」の国だ。

死んだ愛する人にキスしたら相手が復活するネズミの王国の姫君たちの物語にも感動するけれど、

わたしたちは、2度と生き返らない猫の幸福にも、同じように心を寄せる。

愛する人の死を嘆くことができる。
命尽きるまで泣き続けるほどに、誰かを愛することができる。

その幸福は、収集しても政治的には何の役にも立たない。

この猫を根拠に愛する人が死んで嘆くことが幸福だなんて定義をして、「みなさん、カップルを見つけたら一方を葬りましょう!」なんて政策を実行するなんて、三流ホラーだ。

幸福は、どこまでも個人的なもの。

それでも、度々行われようとする、分かち合うもの同士が確かめ合う以上の計測には、幸福を道具として実現しようとするなにかの意志がはたらいているのかもしれない。

あの人は、幸福なのかな?
わたしは、幸福になりたい。

この輪郭が曖昧な言葉を頭のなかで聞くとき、そこで蠢いている感情は、人と比べて自分はどんな位置にいるのかという、社会のなかでの自分の座標を探ろうとする、政治的存在としての自分から発生しているように思う。

幸福という言葉の守備範囲はとても広いから、これでうまく整理できているかはわからない。

けれど、ここで整理するとしたら、こんな感じだ。

「幸福感」は分かち合っている関係のなかで伝え合えるし、個人の「満たされた気持ち」につけられたラベルではあるけれど、それ以上の相手に向かって言語化するときは、「政治的な目的」のために用いられる。

つまり、その言葉を聞くほとんどのケースは、個人の幸福感覚とは遠い、政治的な意図が染み込んでいる。誰かと比べるため、あるいは自分自身を含めた誰かを動かすための「変数」なのだ。それは箱であり、そこに、中身はない。

そして、多くの人にはその箱の中に、ぎっしりと広告された「あたりまえの幸せ」が詰まっていて、その箱と自分を秤にかけて、箱の方が重いと不安になる。

それは、目の前の分かち合う相手と「しあわせだねえ〜」と反芻し合っている感覚とはまるで別のものだ。

もちろん、政治的な自己像を把握することは、大切だ。自分が社会的にどのような位置にいるかを無視することは、それによって避けられる痛みはあれど、弊害もある。

問題は、この個人の幸福と政治的な道具に同じラベルがついていることだ。

後者には、「優良消費者度」あるいは「社会的安全度」とでも名前をつけた方が良いのではないだろうか。

言葉は呪文だ。日本語は表意文字である漢字を使い、ひらがなとカタカナ、さらにアルファベッドを混ぜて使うことで、視覚的な強度が強い。だから、言葉の呪力が特にパワフルだと感じている。

だから、この定量分析をする時のラベル名を変えることは、消費社会のモデルに近くないと苦しい、という呪縛を解くのに大きな力を発揮する、かもしれない。

とまあ、こんな長い文章を書いて悶々と考えるのは、前に別の記事でも書いたけれど、子どもたちにさまざまな情報収集、消費の主導権を受け渡すなかで、この消費社会がシャワーのように浴びせてくるイメージを「幸福のモデル」としないために、何ができるかというのが、結構シビアに身に迫ってきているからだ。

年収800万世帯でない以上、無防備に身を晒せば、「自分は不幸」だと感じることは避けられない。

仮にピッタリそのくらいあったとしても、子ども自身が、そういう世帯年収になるような職業を選ぶかも、生活を維持できるかもわからない。

だからこそ、多くの親はそうなれるような学業成績を取らせる努力をするのだろうけれど、それが達成できるかは、親が徹底的に調教するのでなければ、子どもと興味と才能パラメータのバラツキ次第になるだろう。

ここまで、子どもに自分の人生の主導権を持たせる、という方針でやってきたうちの家庭には、それは選べない道だ。てか、そんな調教能力自体、わたしにない。

だったら、いかにこの「幸福」と「社会的安全度」を切り離してインストールするかの話になる。

うーん。親のわたしに、何ができるだろう?

とにかく、「しあわせだねえ〜」と分かち合い、感じる瞬間を作ることなのかなあ…。

子育て、オムツ10000本ノック時代は、大きくなれば楽になると思っていたけど、どんどんレベル上がってる気しかしないね。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。