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レトリックに騙されるな

話終わって投稿してから、「概念ずれてたな〜」と気づいた、今日のStand.fmの音声投稿。

具体的には、「名言」の例のひとつとして「嫌われる勇気」を取り上げたことだ。

これは自分の主張を補強する目的で引用されるときに用いられる文言ではあれ、「アドラーの名言」ではなく、「本のタイトル」である。

文脈はズレていないはずなので、大きな意味での誤解を与えてはいないと思う。けれども、正確性という意味では、明らかに問題。

でも、文字と違って、これを録音した後に、修正するのはとてもむずかしい。むずかしいわりに、意味がなさそうなのでやめた。

というのは、今日の録音内容と重なるけど、情報の受取手は、必ずしも論理的整合性を求めていないからだ。

日本の国語教育は、情操あるいは道徳教育的で、論理的な文章の読み書き能力へのサポートが弱いことの結果としてあらわれているように、そもそもわたしたちは、「共感できるか」が重要。

アリストテレスの弁術論におけるレトリックの三大要素でいうなら、エトス(発信者への信頼)とパトス(感情)が優勢で、日常的な弁論の場でロゴス(論理)が無視されることは、少なくない。

なんなら、ロゴスが前面に見えた時点で、相手は防衛の姿勢を取りはじめ、思考をシャットダウンすることすらある。

だから、多分この間違いを気にするのは、よっぽどロジカルシンキングが強い人だけで、大抵の人にはどうでもいいし、いちいち注釈をつける方が鬱陶しいだろう。

そう判断して、もうそのままにすることにしたのだ(めんどくさいし)。

音声でも伝えたことだけど、知識人や著名人の引用は、同じ権威感覚を共有しているロジカルなやりとりが支配的なビジネスの場では通用しても、それ以外のほとんどの場では通用しない。

すでに定年した先輩方が多勢の近所の自治会の会議で、アドラーやジョブスを引用して変革を迫ることを想像してみてほしい。その情景は、もはやコントだろう。

忘れられがちなのは、「すごい人の引用」は、権威感覚を共有している相手のエトス(発信者への信頼)とパトス(感情)を刺激するためのものであって、ロゴス(論理)ではないことだ。

著名人の引用は、どんなに広く知られていようと「個人の感想」あるいは「あるひとつの理論からの視点」に過ぎない。

でも、実際には、発言者は自分のロゴスの論拠のつもりで語っていると思われるときは多い。権威あるものの主張を知ることは自明の義務であり、ジョブスやアドラーを知らない方が悪いような態度をとる人もいる。

権威や流行の「威」を借りたいだけ、なんならちょっと難しそうな言葉を使ってみたい、そういうエゴのニーズにそそのかされて、実は自分自身がエトスとパトスを刺激されたまんまに、ロゴスを通さずに情報を横流ししている、なんてことはないだろうか?

ええ、そうですよ。

「アリストテレスの弁論術」なーんて引用すると、ちょっと賢そうに、なんか正しいこと言ってる感じ、しない?

でも読む側からすると、こういうのって「めんどくさいな」ってなって、かえって伝わらなくない?

で、ごく一部のこの手の偉人に権威を感じる人は逆に、ちゃんと読みもしないまま、この人の言っていることは正しいのかもしれないと、騙されてしまう。

つまり、こういう「無自覚な引用」をすると、面倒な奴になるか、人を騙す奴になるかという2つの墓穴(のどちらか、あるいはふたつとも)にハマってしまう危険があるのだ。

なんと、恐ろしいことよ。

みなさんも、わたしも(わたしに)、騙されませんよう。




自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。