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流し書き14(日本人の日和見主義、囚人のジレンマ)

 自分の意見を持つのはコミュニケーションの大前提であり最低限のマナーである西洋と比較して、日本の、意見をいつまでもはっきりとさせず、場の流れに応じて会話が進んでいく感じというのは本当に真逆だと思われる。

 こういう話って自分にとっては極めて当然のことなせいで、読んでくれる人にとって最初の3行がどれくらいすんなり入るものなのか逆によくわからないのか想像するのが難しい。

 なのでもう少し具体的に説明をしようと思う。
 西洋、といっても自分がよく知っているのはヨーロッパとアメリカのみだけれど、この2つの土地に共通しているのは、本当に色んな国籍・人種の人間が混在していることである。その結果歴史上では数々の悲しい対立や差別が起こってきたし、だからこそそういった対立に対処する方法というのも土壌に染み付いている。
 それは具体で言えば無数にあるのだが、一言でまとめるならば「違いを歓迎する・違いがあることを前提としたコミュニケーション」である。
 たとえば、初対面の会話では、話すべきトピックや話の進め方は固定化されている。そもそもどんな話題を振るかという判断も文化によって大きく異なるのである。だからそこを一々カスタマイズしていたら大人数と話すのは不可能だし、皆が進め方を暗黙に了解しているからこそ表面上はスムーズに会話が進むのだ。そういうふうに社会が設計されている。
 他の例でいうと、「意見の食い違いは面白い」というマインドセットもあるだろう。日本人のように空気を読んで合わせることはない(もちろん話題によるが)。相手と違う意見をもつからこそ誰かと話す意味があるのであり、相手にyesしか伝えられない人とは話していても手応えがないと思われてしまう。

 日本人同士のコミュニケーションは日和見主義的である。
 囲碁をうったり、オセロをするような感じ。「禁じ手」がそこには必ず存在している。緊張感に満ち溢れている。言ってはいけないことがたくさんある。
 あるいはゲーム理論の簡単な優位戦略を求める時のような感じか。一つ一つの発言で、周りの全員がどうそれを受け止めるか、その次に反応するのは誰か。全てを考慮した上で最適解となるような発言を自分の行動プロファイルから選択する。

 まあこれは極めてめんどくさい話で、人と話すと疲れるという人はおそらく以上のプロセスを意識的に踏んでいる。すごくめんどくさいし、よく言えばすごく気遣いがある。思いやりの精神とも言えるかもしれない。悪いところがあるとすれば、あなたのその慎重さが相手に伝わってしまうと、相手にも緊張感を与えてしまうことだろう。あなたの水準に合わせなければ、というプレッシャーである。

 だけど、僕が本当に問題だと思っているのは、この思考プロセスを放棄してしまっている日本人がほとんどだということ。 

 ゲーム理論の例で言語化したように、日本人的な(理想の)コミュニケーションははっきり言って考えることが多い。文脈も考える必要があるし、その場での思考の交通整理も必要。当然スピードも求められる。
 これが、全員にできることではないのは当たり前だと思う。だけど問題なのは、これをもう諦めて放棄してしまおう、と決めてしまっている人がどうやら多そうなんだ。だからこれは当たり前の問題だけど、深刻。

 さっき言ったように日本人同士の会話は囲碁をうつようだし、新しい言い換えをすれば地雷を踏まないようにジャングルを掻き分けるような作業だ。誰かを不快にさせること、「和」を乱すのは、怖い。日本人だもの。
 だけどやっぱり、会話をする必要がある。何か言わないといけない。
 僕が思うに、その結果、本当に自分のことを言わなくなってしまっている人が多すぎるのだ。「意見を表明しない」ということが、ゲーム理論で言うところのナッシュ均衡になってしまう。でもこれは、「考える」というナッジがあれば、インタラクティブで健全な会話というよりパレート最適なナッシュ均衡にもいけるはずのゲームなんだ。

 だからすごく奇妙に感じるし、足踏みをしているような感覚。

 残念ながら、その場の最適解としての沈黙ではなく、思考停止の積み重ねにより習慣化してしまった、沈黙で流す、というのが日本人との会話では多過ぎて悲しくなってしまう。

 ちょっと気まずい発言、あるいは行き過ぎた発言が出た時。
 一同が互いを確かめ合うわけでもなく、地面を見て時間が解決するのを待つ。飛び出てしまった杭を打ちすらしない。その杭のある現場から、一同離れてしまう。
 それって優しさなんでしょうか。
 そんなとき僕はいつも、沈黙の気まずさと、その奥に潜む深刻な思考停止の問題を感じて、少しだけ悲しくなってしまう。

 こんなことを書こうと思ったのも、やはり留学というのが物事を考える非常に良い機会である証拠だと思う。
 書いた内容は日本にいる時から思っていたのだけれども、それを断言していいかが日本にずっといるせいでわからなかった。しかし、今回の留学でそれを断言できると思った。

 高校の時に1年間NYで留学をしているので今回(パリ)は人生2回目の留学になる訳だけれど、終わりに差し掛かりつつある4月の今、今回の留学が1回目と大きく異なると感じている点が2つある。

 1つは、NYには一人で行ったけれど、パリでは周りに他の日本人留学生がいるということ。
 残念なことに、自分を客観視するのってすごく難しい。だから留学していて何か自分と周りで違うと感じることがあっても、それが個人単位の問題なのか文化単位の問題なのか判断するのは自分一人ではできない。けれど、周りに日本人がいれば、彼らをみているとなんとなく日本人学生という集団の特徴は掴むことができる。

 もう1つは、NYでは周りの学生は皆地元の人(アメリカ人)だったけれど、今回は世界各国から学生が集まる学校に来ているということ。
 やっぱり、「郷に入っては郷に従え」とか「When in Rome…」とかいうように、自分一人で異文化に乗り込もう!となると現地の文化を尊重せざるを得ない。だけど現地の人間と外国人が半々くらいの環境では、例えばスペイン語を話す人にはそのコミュニティがあるし、それはドイツ語圏・中国語圏の人たちにも当てはまる話。彼らは人数的にも少なくないので、もちろんフランスのことをリスペクトはするけれど、完全にフランスに合わせるというよりは自分達の生き方を貫ける程度にフランスで自己主張をしていくというスタンスをとる。
 日本人たちも例外ではない。日本人は、どこの国に行っても日本人なのだ。僕は、日本を貫いている他の日本人を観察することを通じて日本のカルチャーをより知ることができたし、まあ謎も深まってしまった。

 そんな感じで、ぼやきみたいになってしまうと良くないけれど、僕は今まで以上により一層意識して、積極的に「考えて」いきたい。以上!


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