鬱花 [短編]

 歩けども歩けども、右から左から百合の花が押し迫り、いよいよ怖くなってきた。振り返れば、今来た道と、写真機を構えるあの人がいることは分かっているが、容易に後ろを見ては危険な気がする。胸の内に滲む怯えを、なにかに気取られたら、私はすぐに、おびやかされる。

   濃い緑が山の斜面を覆う。楢や樫の類に混ざって赤松やサカキ、山椿も点在した。照り返す葉の表の白々とした眩しさ、その下には濃い影が。森の縁には臭木が紅桃色の花をつけているが、少し開けたこの場所は一面、山百合で埋め尽くされていた。
   どこもかしこも緑に満ち、溢れでる生命力は、それを繰り出す見えざるものが在ることを囁く。見えざるものは、樹木の枝先に宿り、幹を這い、地に潜る。無数の木々と繋がりあって、山全体がそれを請け負い音もなく唸り、誰知らぬ間に一輪の花の花芯へと還ってゆく。

   湧き出でる山百合の、洪水。息苦しい。溺れてしまいそうだ。私の背丈とそう変わらぬ高さに、余りにも堂々たる花弁。あでやかな花。だけど、一輪一輪が顔であり過ぎる。もの言わぬ幾百の女に囲まれている気がして、ぞくりとした。

 日は高くなり、蝉のこえは遠のいた。梢を渡る風が下って、目の前の草叢を揺らして、それきり音も風も消えた。 
 草いきれが皮膚にまで纏わりついて、熱が体の中にこもった。道は木々の中へと続いている。人がわずかに踏み固めたばかりの、か細い道は右に左に傾ぎながら緑深い山の中に飲み込まれていく。けもの道、なのかもしれない。里から離れたこんな場所へ、人が通うとは思えない。

 帰るなら今だ。と私の中の何かが警告する。しかし、暑さに眩んだ体は涼をもとめ、木立のつくる日陰へと・・・。
 吸う息にも吐く息にも百合の香りが混ざっている。芳香に息を奪われ、徐々に正気を損ねていく。
 「酔いそうね」と言ってみるが、後ろのあの人からの返事はない。
が、シャッターを切る音が、耳に刻まれてほっとする。私もあの人も、まだ現実の側にいる。安堵に背を押され、私は緑陰に分け入っていく。

 日陰はひんやりとして、木の葉のつくる影がまなこを労わってくれる。ようやく一安心を得て、振り返るとあの人は随分と遠くにいた。百合の花が咲く斜面と杉木立の隙間に、帽子が見え隠れした。
 では、先ほどのは・・・。
  あのシャッター音は奇妙だった。もっと近くで聞こえたはずだ。歩いているときも、あの人はすぐ後ろを来ているのだと思っていた。背後には、常に気配があった・・・。 

「誰・・・?」

 中天の太陽が翳り、再び不安が湧き上がる。あの曲がり小径の木立の隙間からも、百合が覗く。見られている。百合の花ではなく、森の暗がりのほうから、山全体から、私は見られている。
 生い茂る木々の隆盛に気圧され、足元から発つ羽虫にさえ意図を感じる。
    もう、人の入り込んではいけない領域に、知らぬ間に踏み込んでいたのだろうか。迷信じみた怖がりだと、あの人に笑ってほしい。しかし何かがずれているのは確かだ。

ー戻っておいで。

と何かが囁く。

   百合の香が漂ってきた。
私は戻らなくてはならない。ずっと昔に、約束をした。父と母に別れを告げたらもう一回、ここへ戻ると。
    いや、それは誰との約束だろう。蜉蝣の薄い羽に乗って、見送られたのは夢に違いはなく・・・ 。私は母の手縫いの木綿の白いワンピースを着せられていて、それに百合の花粉を盛大につけて帰った。それから――。
    覚えていない。緑滴る森の中で、誰にあったのか、何を交し合ったのか。でも、ざわざわと心が騒ぐ。
その心を見えない手は、もう鷲掴みにしてしまった。

    ここに来てはいけなかった。あの人が誘うから、真新しい白いワンピースをおろした。映画女優を真似て白い帽子まで被ったのは、やり過ぎかしらと気まずい私に、まるで白無垢のようですね、と言ってはにかんで笑ったあの人。乞われなければ、山に来たりはしなかった。
    覚えていなくとも、私は分かっていたのだ。もう一度、ここに踏み込めば今度は帰ることはできない。
    見えないものの手を払いのけるには、私とあの人二人きりではどうにも頼りない。早く、帰りたい。写真など、どうでもよいので、一刻も早く山を下りたい。

   「お戻りですか?」

    背後から嗄れた声。
来た道を塞ぐように、現れた老人は、小柄で野良着に背負子姿だ。どう見ても、無害な婆やなのに、何か作り物めいたような、人を謀るためにあえてそのようななりをしてるような・・・。
人ならざるものの気配を感じ、私の足は後ろへさがった。

「ここらの百合は見事でしょう。ヌシサマがよう目をかけておられるから。」

    婆やは鷹揚に微笑んだ。皺が消えて、顔がつるりと丸くなる。
左右の草叢から羽虫が、ふわんふわんと飛び立った。それらは白く発光し、そのひそやかな光は、森の暗さを深くした。

「あちらに甘い水も用意してございます。」

    婆やは道の先、森の奥を指差した。もう、その姿は老人でなく、白髪の童だった。
俄かに喉の渇きを覚え、熱い喉を諌めるために唾を飲んだ。ごくり、と思いのほか大きな音がした。童は笑った。
笑顔は幾重にも重なって弾けた。一人ではなく、四五人、似た姿のものが木立の影で笑っている。

   私はあの人の方へと駆け出した。押し退けたはずの童に手応えはなく、ただ鼬(イタチ)か狐か、四つ足のものが無数に道を埋めた。
   ザワザワとけものが群れ走る。踏まぬように、足を抜いて草叢をかけた。かけて百合の群生の中に、飛び込む。
   斜面にからのしかかかってくる花に囲まれる。こちらへ・・・と、あなたもこちらへと、白く細い手を伸ばし誘う女達。私は夢中で、押し寄せる花を掻き分け、あの人の帽子を探した。

   見えた。

「もう大丈夫。」

    あの人が私の手を掴み引き寄せた。白いシャツの胸元が目の前にあって、助かったんだと、思いたかった。
でも違う。声があの人ではないのだ。

「もう大丈夫。戻ってきたね」

と、彼は言った。触覚を震わせて。

                              


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