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「あいつさえいなければ・・・」と思い続けた人が本当にいなくなったけど

  あいつさえいなければ、と思っていた。

 1度目に彼が極東の小さな島国において最高の権力を手にしたとき、彼は大手メディアや、罵詈雑言の嵐を餌に拡張する匿名掲示板を利用し、島国が劣化していった原因として、これまでの島国の歴史観、教育の根幹にある考え方を否定し、特定の組織を悪し様に罵しり、ひたすらに攻撃し続けた。

 私の母は、私が小学生だったある日、島国からほど近いが、歴史的に非常に難しい関係にあった故に虐げられてきた国の人々が営む店で、海産物を平たくしたものを買ってきた。お店の女性の対応がとてもあたたかかった、と言っていた。ごま油と塩の味がそれまで食べた海産物を平べったくしたものとは異なっており、美味しいと思った。

 夕方、主人公が妖気を感じると髪がピンと立ち、目玉に手足がついている男性を髪の毛の中に入れたりしているアニメを見ながら過ごした。実はその目は主人公の父親の片目なのだという。前髪を垂らし片目を隠す主人公は、ヒラヒラと空を舞う布の妖怪や、壁の形状をした妖怪や、猫のような妖怪や、前歯が少し出ていた味わい深いキャラクターたちとともにいろんな出来事に遭遇していた。地元の公立の学校の、少し破綻したクラスの人間関係が、どうにも苦手であった自分は、がっこうもしけんもなんにもない、よるの墓場で運動会をする彼らが羨ましいと思った。

 極東の島国から、南の諸島に従軍した結果、片腕を失ってしまった作者によって描かれた、妖怪のアニメは面白かった。そのアニメを見ながら、プラスチックの容器に入ったごま油と塩で味付けされた海産物を平べったくしたものをよく食べた。

 母はそのお店の店主と仲良くなり、たびたび、その近隣の国の代表的な食べ物である、白菜を唐辛子で漬け込んだものを買うようになった。私の幼少期の味覚は、ごま油と塩味が効いた海藻を平べったくしたものと、辛い白菜の漬物によって作られた。

 母の口癖は、「世界で一番綺麗な女性は、近隣の国の出身者らしい」というものだった。何を根拠にそう言っているのかはよくわからなかったが、何度も何度もそう言うので、へえ、と思った。確かに白菜を唐辛子で漬け込んだ食べ物は、肌に良さそうだと思ったし、その近隣の国の人が綺麗な人が多い、というのは、なんとなくそんな気がした。

 母方の祖母は、島国からほど近い近隣の地域に対して、見下していたというか、非常に厳しい目を向けていて、時折驚くような差別的な発言をすることがあった。孫には優しい祖母が、どうしてそんなことを言うのか、驚いた。また、祖母は、極東の小さな島国であったはずの国が、その領土を広げ、支配地域を拡張した結果、世界で最も強大な軍事力を持つ国と敵対することになってしまったことを生涯に渡り悔やんでいた。

「こんな小さな国が、勝てるわけなかったのに。」

「どうして、戦争なんかしたんだろうね。」

祖母は時折ぽつりとそう呟いたが、その呟きには誰もあまり興味がなく、祖母の発言は、今は更地になってしまった、築100年を超える木造の家の天井に、溶けてはじけて消えた。誰も、何も言わなかった。私は、祖母が時折つぶやく、小さな島国が起こした戦争への後悔の念と、週刊少年ジャンプを読むことが人生の全だった小学生の自分の日常が繋がらなさすぎて困惑した。

祖母が戦争のことを悲しむたびに、私は、祖母の家に常にぶら下げられていた、ハエトリリボンの上に絡め取られたハエの足が、粘着力の強い濃い黄色のテープに張りつき、どこにもいけずにぴくぴく動き続けている様子をなんとなく見ていた。あのリボンにぶつかり命を落とすハエと、なんとなくぶつからずに生き続けるハエがいるのだ。

祖母は、最先端の科学技術の叡智を結集して開発された爆弾を、国土に落とされ、壊滅的な被害を受けた時期に、幼少期を過ごした。そんな祖母はたまに、私にこう言った。

「お前は本当に恵まれている。」

「でも、お前は、わがままだ。」

「お前」という言葉は標準語を話す地域においてはとても厳しい語感の表現だが、祖母にとってはそこまでの厳しい言い回しではなかったと思う。なんにせよ、その言葉は胸にグサリと突き刺さった。祖母にわがままな娘を育てた、と思われていることに、母は辛そうな表情を浮かべていた。

私の日常が恵まれていると思えることはあまりなかった。

祖母が発する「わがままだ」という言葉には、私の心臓を掴み、ぐっと握りしめてその鼓動を止めさせるかのような、強い強い攻撃性があったが、「わがままだ」と言われると、確かにそんな気もするのだった。

祖母が若い頃、結婚は家同士が決めるものだった。

祖母は、ある日、「あの坂を登ったところにいる人が夫になる人だ」と言われ、丸メガネをかけた痩せた祖父の姿を見た時に、「こんな人と結婚しなければいけないのか」と、あまりにも悲しくて涙が出たという。

真偽のほどは定かではないが、祖父は、戦地で靴紐を結んでいたことで、銃弾を受けず、命を落とさずにすんだらしい。祖父が靴紐を結ばなければ、母はこの世に存在しなかったのだ。靴紐を結ぶためにかがんだその時間は何秒だっただろう。数秒間の屈みによって命を守った祖父は、彼と結婚することが悲しくて泣いた祖母と、生涯を共にした。祖父は読書と書道が好きだった。孫にはとてもやさしく、敵国の言語であったはずの、英語が大好きだった。孫に向かって、英語で歓迎の挨拶をしてくれたときは、そのちぐはぐな感じに、思わず爆笑してしまった。

英語を熱心に学んでいた祖父は、3人兄弟の長男だった。東京から遠く離れた農村地域で生まれたにもかかわらず、東京の大学を卒業した祖父は、当時としては恵まれた教育を受けることができたが、農村で育った祖母は、女性であった故に、最も多感な時期にまともに教育を受けることもできず、姑や義理の親族からの強烈な虐めに耐え続けながら、農業の手伝いや、子育てをしたらしい。

 栄養状態や医療の環境が整っていなかった農村地域で、いじめを受けながら子育てをしていた祖母だったが、ある日、長女であった私の母が原因不明の眼病にかかり、片目の視力を失った。叔母によれば、祖母は、私の母をおぶって治療できる病院を探し、山の中を歩き続けたが、母の視力は戻ることはなかったという。

 片目の視力がなかった母は、最も多感な時期に、目を隠すために前髪を垂らして思春期を送ったという。母は、私にその話をしたことはないが、ある時、叔母からの手紙で初めてその事実を知った。

 私は当時、親しかった友人が次々と他界し、残念な職場での劣悪な人間関係に日々悩まされ、母との関係に悩み、精神を病んでいた。幼少期から、母親の癇癪や、精神的な不安定さや、全ての行動を監視しているような様子に悩まされ続けたことに気がついたが、どうすれば良いのか、全くわからなかった。

 常に人の顔色を窺うように育ったことで、仕事でも周囲の人々とうまくいかず、精神的に限界がきており、そのことを叔母に相談したのだった。

 叔母は、手紙を送ってくれた。何枚にも渡る便箋にしたためられた手紙の中で、母が父と結婚した時に「カタワなのに結婚できたのか」と、結婚式の場で、祖母をいじめ続けた親族に陰口を叩かれたが、そのことも気にしないで、全てを笑い飛ばすことで生きてきた、と書いてあった。

 母は彼女の人生において、「勉強が大事」「笑いが大事」と確信するようになったという。

 母は祖父の影響か、農村地域で必死に英語を勉強し、東京の大学に進学し、父と出会った。叔母曰く、父は、南方の島であった近隣の国に従軍した経験のある祖父が、非常に神経質で、かつ大病を患い、祖母が働かざるを得ない環境で育ったという。父方の祖母は当時としては珍しい、働く女性のさきがけのような人だった。叔母曰く、父の育った家庭は、何一つ明るい要素が見当たらない、漆黒の闇のような家庭だったという。そんな暗すぎる家庭で育った父は、冗談を言いまくり、大きな口を開けて大爆笑する、母の底なしの明るさに救われたのだと言う。女性の芸人さんが毎日のようにCMに登場する2022年の今、女性が大声を出して笑うことが許されなかった時代があったことを想像するのは難しいが、母は自由に生きられなかった祖母の世代の価値観に、徹底的に反発するようなところがあった。フェミニズム、という言葉は恐らく存在していない時代だったが、女だから自由に生きられない、というような考え方に対し執念のごとく反発していた。子供の立場からすると、戸惑うこともあったが、世間の常識や価値観を真っ向から否定するようなところがあった。

計画停電が行われた頃の東京のように、暗すぎた家庭で育った父の人生において、大声で笑う母の存在は、一筋の光だったのかもしれない。

 父は、母の底なしの明るさに惹かれ、母が「カタワ」であることは、一切気にしていなかった。父は、読書と、映画と、音楽と、サイクリングが好きだった。小さな島国のドラマや映画はあまり好きではなくて、家では島国の映画や時代劇などをみたことはあまりなかった。アメリカやヨーロッパの映画を好み、ビートルズやクラシック音楽をこよなく愛し、演歌はあまり聞かなかった。日曜日の午後にはコーヒー豆を挽いて、自らの手で、コーヒーを淹れることにこだわっていた。独特の姿勢で、両足で、コーヒーミルを挟み、ハンドルのような器具をぐるぐると回して、豆を挽く父の姿を覚えている。時々、豆を挽く手伝いをすると、父はとても嬉しそうだった。

父は、極東の小さな島国は、政治や、教育や、文化の水準がアメリカやヨーロッパよりも低い、というような感覚を強く持っていた。母国である島国に対して、自虐的、といえばそうかもしれないが、父親が望まぬ従軍を経験した父にとっては、権力者が決めた愚かな決定が、その国を生きる市井の人々をいかに苦しめるかを知っていたからこそ、島国の体制に批判的であり、欧米に憧れたのだと思う。島国の全てを否定しているわけではなかったし、体制への批判は、より良い国になって欲しいと願う気持ちからだったのではないか、と思う。

父方の祖母が亡くなったあと、祖母が書いた手記を読んだ。

空襲で家を焼かれた祖母が、爆撃の中を必死に逃げて命を取り止めたことが、書かれていた。私は祖母がそんな経験をしていたことを一度も聞いたことがなかった。

爆撃の中を逃げた祖母が生き延びたことにより、父が生まれた。

そんな父が、母と出会ったことにより、私が生まれ、そして私と父と祖父に、顔も体型も性格も酷似している息子が生まれた。空襲の中を生き延びた祖母に、父と私に酷似した息子を会わせたかったが、晩年、自ら強い意志で介護施設に入り、そこでの人間関係やダシのない味噌汁のまずさに失望しながら、認知症を発症してしまった祖母に、息子を会わせることは叶わなかった。母との関係に悩んだ結果、母と距離を置くようにしたことで、祖母との交流もしにくくなってしまったことも、息子を会わせられなかった一因であった。

 私の記憶にある母は、目に負担をかけないように、いつも色の濃いメガネをかけていて、その様子は、長寿番組の司会をしていたブラブラと街を歩いたり、時折トランペットを吹いたりする多才で小粋な男性に、少し、似ていた。

 夏休みには、母が育った地域の祖母の家に行った。8月にブラウン管のテレビを祖母と見ていると、近隣地域との軋轢の原因になる、大きな鳥居のある神社に詣でる、当時の最高権力者についてのニュースが流れた。彼は、ゲンコツで地球を割ることができ、手を水平にして猛烈なスピードで走ることができる、煎餅のような名前のメガネが印象的な女の子が主人公の人気漫画に登場する、ある博士に顔が似ていた。祖母は、少し白髪の髪が印象的な島国の最高権力者が、こうして巨大な鳥居のある神社に公式に詣でて、かつて島国のために戦い命を落とした人々のことを肯定してくれることが嬉しいと、ブラウン管のテレビに向かって涙を流していた。

 島国の最高権力者の誤った決断によって幼少期に辛酸を舐めたはずの祖母は、そんな歴史を肯定し、近隣地域との敵対感情を煽っているかのような、最高権力者の姿にいともたやすく、心を動かされていた。

 従軍を経験し、晩年、PTSDとも言われるような症状に悩まされ、幼少期の母に対して、家で笑うことも、冗談を言うことも許さず、猛烈な癇癪を起こして幼少期の母と祖母の心を傷つけてきた心の優しい祖父が、癌の苦しさからアルコールに溺れ、亡くなった後、祖母の家には、マフラーを巻いてメガネをかけた近隣の国の人気俳優が大量に登場し始めた。

 祖母は、家中のあらゆるところにメガネをかけた男性の写真を貼り、彼が出演したドラマの撮影地である近隣の国に叔母と共に旅行した。お土産屋で買ったと思われる、メガネをかけた男性のイラストが足の甲の部分に描かれた靴下を、毎日のように履いていた。叔母はそんな祖母の姿を面白がり、爆笑して、意気揚々と、その靴下を履かせていた。その姿は、滑稽ではあったが、心優しかったゆえかアルコールに溺れた祖父が亡くなり、一人暮らしが長かった祖母の生きがいが生まれたことは、嬉しかった。

 祖母の幼少期に、小さな島国が植民地として支配した国の、メガネをかけた俳優が登場する人気ドラマは面白かった。年代を超えた役柄を同じ俳優が演じ分ける。当時としてはあり得ないほど純愛なドラマは、純粋な心をやすやすと食い物にしてくるような気持ちにさせられる時代だった島国において爆発的にヒットした。確かにその純愛ぶり、すれ違いぶりは斬新で面白かった。祖母は、ドラマに感情移入しすぎるがあまり、うわごとのように登場人物のことを時折話題に出した。

 祖母は、幼少期に小さな島国よりも低い立場にあるかのような差別的な目線で見ていたはずのその国の俳優に、80歳を超えてから、恋をしていた。かつて敵視していた国の俳優に恋をする、その矛盾に気づくことはないようだった。孫である自分は、祖母の感情のあまりの変化に、疑問を持ったが、何にせよマフラーを巻きメガネをかけた、口をちょっと開けた笑顔が印象的な彼が祖母の孤独を癒してくれるのはありがたいと思った。

 祖母の家の照明器具の、電気をつけるための紐が伸びた先に、メガネをかけた男性の小さな写真が教祖様のようにぶら下がっていた時には、もはや、何か疑問を挟む余地はないと思った。純粋に面白かった。


祖母と過ごした記憶が詰まった家は、知らない間に更地になっていた。私は更地になる前にその家に行かなかったことを心から後悔した。家族に対して複雑な気持ちを持っている自分だが、その家で過ごした記憶は本当に楽しい記憶しかない。普段は不機嫌で癇癪持ちの母も、そこで叔母や祖母や私のいとこたちと過ごしている時は楽しそうだったからだ。その家も翻弄された島国の歴史の中を生き延びた家だったはずだが、大手メーカーが手がける、横幅の狭い賃貸物件にその姿を変えてしまった。

 「あいつ」の話である。 

 学生時代に中国語を学び、中国と台湾に留学し、中国人の友人も台湾人の友人も韓国人の友人もいる自分にとって、極東の島国の最高権力者であった、近隣諸国との関係を悪化させるようなあいつの言動は到底許容できるものではなかった。一挙一動が、許し難いと思っていた。

 あいつは最高権力者としてはあり得ないほど頻繁に、テレビの人気バラエティー番組に出演した。生放送で謝罪をさせられた人気グループが料理を作ったりする番組や、サングラスが印象的な司会者がマイクを持って歌いながら登場する番組などに出演した。

 庶民の心を捉えるのはテレビが何よりも強いと知っていた。芸能人と仲良くしていれば、国民は好感を持つのだ。

 あいつは国民を馬鹿にしている、と私は思った。

 ある日、最高権力者であるあいつが美容院で髪を切ったことが、夕方のテレビニュースで流れた。そんなことも可能にしてしまう島国の劣化ぶりと、信じられないほどの陳腐さと、傲慢さに、ほとほと呆れ果てた。

 最高権力者であった彼は、科学技術の叡智を結集して作られた人類最悪の兵器が、2つの都市に落とされ、何十万もの命を瞬時に奪った小さな島国の歴史に対し、自虐的に捉えること、否定的な見方をすることが全ての諸悪の根源であるという、それまで自分が信じてきたことを徹底的に否定するようなことを臆面もなく表明し、ある特定の団体や政党などを敵対する感情を煽る発言を何度も何度も繰り返した。病気にもなって一度退いたが、何かの大きなミエナイチカラにより、最高権力者として復活した。

 かつてないほどの長い期間、最高権力者として君臨し続けた彼は、自分と同世代の男性が作った、手作りの2発の銃弾によってこの世を去った。ハンドメイド暗殺。反抗に及んだ犯人は、母親が、ある新興宗教団体に洗脳された結果、財産を全て奪われたのだという。

 人生の最も多感な時期に母親が洗脳され、巨額の資産を投じていくその姿を間近で見ていた、41歳の犯人が生きた世界を想像する。

 銃を撃った彼は、自分だったかもしれないと思うところがあった。就職氷河期世代の自分は、日本という国が衰退し、ある時期の爆発的な経済成長が破綻した後の残り滓のようなものを奪い合うような、閉塞的な日々を生きてきた。

 あいつは、近隣諸国への憎悪を煽り、人々を分断させた。私の祖父母や父や母が苦しんできた、そんな過去の歴史を一切かえりみず、島国を賛美する情報を大量に流し近隣諸国への憎悪を煽った。


 あいつは、世界中の人々が疫病の拡大に怯える中、わずかな一筋の光のようなネットの投稿だった、大好きなミュージシャンの映像を、頓珍漢な形で利用し、豪邸でコーヒーを飲む呆けた顔をぬけぬけと晒した。


 あいつは、給食当番のようなガーゼのマスクを、莫大な税金を使って作らせた。

育ちの良い3世のあいつの、やることなすこと、許せなかった。

 いつかいなくなってほしい、と思っていたが、ずっとい続けるのだろう、とも思っていた。

 物心ついたときからずっと、あいつだけでなく、この国の権力者たちが、自分の感じている生きづらさや閉塞感を、解決してくれそうには見えなかった。

 2つの核爆弾をアメリカに落とされ、何十万人もの人々の命が瞬時に奪われた「美しい国」を焦土にされたことで、多くの日本人が戦後切実に願ってきた「戦争を起こさない国」としての立ち位置は、2つの手作りの銃弾によって、加速度的に変化しようとしている。

 彼がいない日本は、前より良くなるのだろうか。



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