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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<45>

新しい辞書と日記帳

春休みに塾の先生とみんなで出かけた。駅まで歩いて行って、まずはボウリングをした。ボウリングなんて久しぶりだった。ボウリングというと嫌でも、あの死んだ2匹の魚のことを思い出してしまう。きっと一生、ボウリングとあの魚が頭の中でつながってしまうのは仕方がないのだろう。ボウリングをやっていなかった6年の間に随分と下手になっていて恥ずかしかった。火星のような色をした8ポンドの玉、懐かしいなぁ、私が使ったのもまだここにあるのかなぁと思い出しボーっとしていると先生に肘で突かれ
「ちょっとちょっと、あんたの番だよ、もう退屈してるんじゃないだろうね」と言われたので
「あまりにも下手くそなんで、恥ずかしくてしょげてました」と答えた。みんなは笑っていた。みんなも私と大して変わらないスコアなのに。

ボウリングの後は地下鉄で伊勢佐木町まで行って、小ぎれいな中華料理屋でチャーハンをご馳走になった。先生がよく行く店みたいで、店の人と少し話をしていた。先生と私たちって、知らない人から見たら孫とおじいさんに見えるのかなと思った。先生には子供がいないから、孫なんか実際はいないのだが。

次は映画館に向かい『ダークマン』を観た。映画は平日の昼なのに割と混んでいたが一番前の席に座れた。映画館も久しぶりだった。小6の頃に家族で行ったのが最後だから、あれが中学時代に行った最初で最後の映画館だった。途中先生が席を立ったのでトイレかなと思ったら、戻ってきてちくわを私たちに配った。嬉しかったし美味しかったけれど、普通はポップコーンとかじゃないのかと思って笑いをこらえるのに必死だった。

先生の家に戻る頃にはもう夕方過ぎになっていた。そしてまたいつものワインと舶来品のチーズとお菓子が出て来た。もはやこの塾の伝統なんだろう。いつもの教室のいつもの位置にみんな座って、これから通う高校の話や、前に塾にいた子たちの話をした。みんなで話していると私はやっぱり公立に行きたかったなと思った。男女の別なしに下らない話をするのが楽しかったし、女子高なるものがどういうものか想像できずにちょっと怖かったのだ。

ボードゲームをした後で先生が
「これ、先生からみんなに進学のお祝い」と包みを3つ持ってきて一人一人に手渡した。これ今、開けていいのかな?とみんなで顔を見合わせた。その様子を見た
「開けないの?帰ってからのお楽しみでもいいけどさ」という先生の声で遠慮なく一斉に開けた。英和辞典だった。先生が
「ああ、南さんには数学の本の方が良かったかな?」と嫌味のような冗談を言ったので
「連立方程式はもう勘弁してください」と苦笑いした。今年に入って3冊も英和辞典を新たに手に入れたことになる。お年玉で買ったリーダーズ、高校で買わされたもの、先生にもらった黄色の表紙の辞典。みんなでペラペラめくっていると愛読者ハガキがパラっと落ちて、送ると抽選で図書券がもらえると書かれていた。アンケートの部分の「この本をどこで入手しましたか」という欄を見て康明が
「『優しくて教え方も上手い杉本塾の先生にもらいました』って3人で書いて出したら図書券全員もらえないかな」と言ったのでみんなで大笑いして、「それもいいけどさ。『本屋で万引きしました』って3人で書いて出したらどうなるかな」と私は悪のりした。先生は
「また~!南さんはいつも際どいジョークを言うね」と呆れていたけれど明らかに面白がっていた。ああ、ものすごく寂しい。これから寂しくなる。もうこの場所でみんなで集まることは二度とないのだ。連立方程式の猛特訓でもなんでもいいから、今日は帰りたくないと思った。いっそ先生の孫になりたかった。

誕生日が来て15歳になった。人生の5分の1くらいは生きたってことか。まだ5分の1ともいえる。短いようで長い人生なのか、長いようで短い人生なのか。分からない。数日後には高校生だけれど、私は新しい環境に慣れるまでに時間が掛かるし、集団での行動など本当に苦手だからしばらくは落ち着かない日々が続くのだろうなと思うと気が重たかった。家にいるのも当然もっと嫌だったけれども。高校じゃ、気の合う子なんかいるわけがないんだろうなぁ。隣の席になった子に「好きな芸能人っている?」などと訊かれたらどうしようか。うちでは相変わらず夜8時半には母に寝ろと命じられていたし、そもそも芸能人なんて興味がなかったが、知らないとか言えないしなぁ。一体どうしたらよいのか。ああ、クラス全員、みんな変な子たちならいいのに。誰かと表面だけは仲良くして、テレビや芸能人の話題にも無理やりついて行こうとした方がいいのだろうか?そういう話題をしなくても済むような子となんとなく仲良くなるというのは無理なのだろうか。このまま自分が素でいたり、孤独を貫けば班とか組を作るときには困ってしまう。グループを作るような行事とか課題が、本当に嫌だった。グループ分けなんて、出席番号順かくじ引きでいいじゃないか。尤も、それでも私は仲間外れにされるのが目に見えていたけれども。中学の時みたいに、もう私のことを不良扱いしてくるような子もいないだろうし、クラスでどう振舞えばいいのかと悩んだ。門限が5時半で、服装や髪形を異常にうるさく言ってくる親がいる私のような奴など、誰も友達になんてなりたいと思わないだろうしと。

高校生になるのは全然楽しみではなかった。家は相変わらずだし、日記はずっと続けていたものの、書きたいことはないわけじゃないのに気力をなくすような事件や出来事があるともう面倒くさくなって適当になってしまうという私の悪いクセが出てきてしまっていた。高校に通い始めたら、また書きたいことが沢山あふれてくるのだろうか。3年間、母に日記を盗み読みされた形跡がないのは奇跡だったが、いつまた小学生の時のように見つかるか分かったものじゃない。そう思うと益々書く気が失われていた。

そんな状態でも、出来る限り英語の勉強は続けていた。途中でやめたらざーっと脳みそから流れ出て全部忘れそうな気がしたのだ。それでは今まで3年間必死にやってきた意味がなくなってしまう。お年玉で買ったリーダーズ英和辞典は少しボロくなってきていた。知らない単語が出て来る度にすぐに引いていたから。うっすらとシャーペンで、気に入った単語にに線を引いていたが、なんでこんな単語にマークしたんだろう?というのがいくつもあった。主に死とかに関係する言葉。こんなのを誰かに拾われて見られたら危ない奴だと思われるな、と思いながらページをペラペラとめくっていたら私は突如ひらめいてしまった。日記を英語で書けば母に盗み見されるかもという心配や、今までみたいにわざわざ学校カバンに入れて持ち歩く必要はなくなるじゃないかってことを。何故こんな簡単なことを今まで思いつかなかったんだろうか。私はバカだ。私が日本語で日記を書いてるくらいのことを英語で書くにはまだまだ私の英語力は全然なさすぎたが、頑張ってやってみる価値はあるんじゃないだろうか?英語の勉強にもなるし、何より母に読まれて最悪の事態になるということは防げるじゃないか。あ、でも今までに書いた3年分の日記はどうしようか。捨てたくないなぁ、3年間、私が生きた証だから。この3年間に起きたこと、なんだか忘れてはいけない気がするからたまに読み返したい。
早速新しい日記帳を買いに行った。今度からは鍵は必要ないから、安いもので充分だ。念には念を入れて、表紙の裏には
「これを読んだり訳したりしないで下さい、内容を知られたら私は親に殺される」と英語でマジックで大きな荒っぽい字で書いた。妙なところで勘のいい母のことだから、なにか感づかれたら日記帳を近所の先輩や同級生に見せて、何が書いてあるのか教えてと訊きに行きそうだから。あの人ならやりかねない。

次に小遣いをもらったらすぐにいい和英辞典を買って、その次は英英辞典だーーいいアイデアを思いついて、ちょっとだけ気分がよかった。コロンブスの卵というのとはちょっと違うかもしれないけど、我ながら本当にいいことを思いついたものだ。本当になんでもっと早く思いつかなかったのか。ああ、頑張ろう。頑張るしかない。私はこんな家、こんな島国から脱出するのだ。