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日本人同士で英語を話すの恥ずかしい・・・「Whoops!」と言われサブイボが出た!

 20年以上前の大学時代の、甘酸っぱい思い出である。

ほとんど勉強に励まなかった身ではあったが、1年生の時の英語のクラスは本当に楽しかった。クラスメートは全員あまり英語が喋れず、喋れないゆえか、非常に静かな議論が続いたものの、英語では物静かながらそれぞれ考えていることはしっかりあり、優しい人が多く、Bの成績で泣くような競争意識が過剰に強い人もおらず、とても楽しかった。

英語を英語で学ぶ、ということがとても新鮮だった。教材も全て英語で書かれていて、テーマもとても充実していた。生命倫理とか、延命治療の是非、と言うような内容がテーマだったことは今にして思うと本当に凄まじいカリキュラムだったと思う。もっと勉強すればよかったが、今思い出してもよくあんな授業をあれほどまでに英語が喋れない人たちにやっていたなぁと思う。(別のクラスでは、もっと流暢に喋れる人も多いクラスもあったのだが)そんな学生への信頼感というのは、今思うととても貴重だったと思う。あまり話せない人たちが本当は理解している、と思うことはとても困難であるからだ。特に外国語の場合理解力も表現力も実際に脳内にあるものよりも圧倒的に理解していないように思えるものしか表現できない。あのカリキュラムを設定していた当時の先生方には、本当に感謝である。(当時はよくわかっていなかったが)

最初の頃は、全て英語の授業には、ついて行くのが必死だったが、3ヶ月ほどでかなりリスニング力もついた。あるタイミングを境に、全部英語なのに聞き取れる!という感覚になった時期があった。

そんなICUが誇る、しかしながら先生のほとんどが大学の正規の教授ではなかった(当時はそんなことは考えていなかった)英語の授業で、最も衝撃を受けたのは、英語で授業を行うことができるほどの英語力を持つ、海外の大学で博士号などを持っていた日本人の先生たちの存在であった。

自分が過ごした小学校、中学校、高校までの狭い世界において、すべて英語で授業ができるような先生は存在しなかった。そもそも本当に英語が喋れる人は英語教員の中にどれほどいたのかが怪しく、そのことに強い不満を持っていた。

その中でも特に印象に残っている先生がいた。小柄で眼鏡をかけている男性の先生である。

彼が黒板消しを落とした時、彼は、とてもナチュラルに、「Whoops!(ウーップス=おっと!みたいな意)」と言ったのだ。

全員学生は日本人で、そこまでするのか!と私は彼のその英語教育者としての徹底ぶりに、とても衝撃を受けた。

「Whoops!」である!!!小っ恥ずかしい!!!

今でこそ記憶を美化している自分であるが、最初の頃は、日本人同士で英語を喋る、ということへの精神的な抵抗感は強かった。「世界のいろんな国で英語を教えてきたが、同じような英語のカリキュラムを行なっても、これほどまでに英語を喋ることへの抵抗が強いのは世界でも日本人が圧倒的である、なぜなのだろう?」というようなことをとても不思議そうに言っている先生もいた。

この英語への、抵抗感は、一体、なんなのだろう。

私も、英語ができるようになりたい、というピュアな想いを持っていたのに、英語のジェスチャーとかハイタッチとか、ハグは、どうにも耐えられず、できなかった。眉根を寄せるような顔とか、オーバーアクションが、恥ずかしすぎる。わからない、というアクションをするときの手を広げるポーズとか、耐えられない。つい数年前まで、英語を英語っぽく読むことへの抵抗感も強かった。英語なのだから英語っぽく読むのは当たり前である。FMの名番組、サンデーソングブックの曲紹介で、常に圧倒的なカタカナ英語で曲紹介に徹する山下達郎には、若干の疑問もあるが、気持ちも分かるところもある。

この「日本人が英語を話す上での心理的抵抗感」の問題については、長年、誰にも全く頼まれてもいないのに、ずっと考えていたのだが、日本人の英語力の拙さというのは、文科省監修のカリキュラムや教科書の内容、先生たちの英語力の不足、必要性を感じづらいなどの問題が、重大な部分を占めるとはいえ、もっと根深い理由があるような気がしていた。

その大きな理由として、日本語で考えていることと英語で考えることとの圧倒的な性質の差みたいなものがあるのではないか、と思った。

日本語で日本人同士と会話をする時というのは、その話し手の考えていることを伝えるために会話をしているわけではない、ということが、英語上達を妨げる、大きな原因になっているのではないかと思う。

内輪の集団の中で求められる役割を演じる。そこからはみ出すことが許されない。異なる存在は容赦無く排除されてしまう。

そのようなルールにおいて、「英語を話す」という活動は、非常に相性が悪いのだった。自分の意見を言う機会がなく、ひたすら内輪の話題に乗っかるだけの会話をする上では、英語を話す、ということの必要性がないのである。外国語を話せる存在になるというのは、完全に外の存在になることを選ぶことであり、日本の中では、外の存在は「存在していないもの」とみなされてしまう。大袈裟に思うかもしれないが、英語を話せることを知られることによって排除されたというか、異なるものとして存在しないかのように扱われた、そう言った経験は、何度かしたことがある。

日本語で話す際には、考えていることや意見を率直に誰かに話す機会は、ほとんどないのだった。意見を言う人は、特に女性は、本当に嫌われるのだった。うまいことその場の空気を壊さないように、愛想良く、適当なことを話したり相槌を打ったり、しゃしゃり出ずに相手の気持ちを汲んで反応し続けることが重要なのである。その人の個性や考えなどは、あまり必要とされていない。「そこまで言わなくても?日本人でも、意見を言う人もいるのでは?」と思うかもしれないが、本当にそうなのである。蓮舫さんがちょっと何かを言っただけであの嫌われようである。その場の雰囲気を壊さないよう、上下関係に従い、与えられた役割をただ全うすることが求められる。

そのような環境下においては、英語力を身につける必要性はないのである。日本人の人との接し方、日常的な思考と、主語が「I(=私)」であり、自分の意見を話すことを常に求められる英語という言語は、すこぶる、相性が悪いのではないかと思う。

周囲に求められる存在と異なる存在は、日本の世間の中で居場所がなくなってしまう。上下関係や、キャラ付けの外にいるものは存在を無視される。それは時にとても暴力的だが、そのルールをうまいこと読み取れる人には快適な世界でもある。

2023年のグローバルな環境下において、そのような日本人の言語のパターンや、人との交流のしかたというのは、あらゆる意味で生きづらさばかりを募らせ、先駆的な取り組みもなされず、内輪な人たちが内輪な人に資金をただただ流すような非常にネガティブな社会を作る上では役に立つが、(例:アベノマスク2枚配布)世界からどんどん置いてきぼりになってしまうという問題を抱えていると思う。内輪のノリが大好きな私としても、世界から孤立し続ける日本人の英語アレルギーは、2023年の今、国家レベルで多大な悪影響をもたらしているのではないかと思うのだった。

以上です。

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