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京極夏彦〈百鬼夜行シリーズ〉全レビュー|第1回:『姑獲鳥の夏』

2023年9月、京極夏彦の〈百鬼夜行シリーズ〉最新作『鵼の碑』が、17年の時を経てついに刊行された。第1作『姑獲鳥の夏』刊行からおよそ30年、若い読者には、当時まだ生まれてすらいなかった者も多い。東大総合文芸サークル・新月お茶の会のメンバーが、いま改めて〈百鬼夜行シリーズ〉と出会う連載企画。毎週火曜更新予定。

 いかに唐突に出現したように見えようとも、一篇の物語が書かれるためには、すでに数知れぬ物語が存在していなければならない。他方で、いかに「賛否両論」をもって迎えられようとも、一篇の物語は読者の手元に届いた瞬間から、文脈の蜘蛛の巣のなかに位置づけられ、後に続く物語とのはざまで、固有の意味を付与されることになる。

 たとえば、『姑獲鳥うぶめの夏』講談社文庫版解説で笠井潔は、特段の説明もなく、京極堂(=中禅寺秋彦)を「陰陽師探偵」と呼んで(しまって)いる。「あきらかに京極夏彦の独創である」といいつつも、さほど類似点があるわけでもないブラウン神父や物部太郎を引っぱり出してまで京極堂を〈名探偵〉の系譜に書き込もうとする記述には、いささかアクロバティックな趣きすら感じられる。

 あるいは、『姑獲鳥の夏』を「第0回メフィスト賞受賞作」と呼ぶ、手垢のついた回顧的倒錯を思い出してみてもよい。この作品の出現が賞創設のきっかけになったのが事実だとしても、「第0回」という位置づけは、メフィスト賞の系譜から、過去を遡って文脈づけがなされた結果にほかならない。

 ここではなにも、笠井の論旨をあげつらったり、瑣末な定義論争をしようというわけではない。じっさい、「京極堂シリーズは多数の読者を獲得し、現代日本における本格ミステリの裾野を広げることに大きく貢献した」という笠井の記述には、現代の〈本格ミステリ〉プロパーを自認する読者であれば、だれもが一応は頷けるはずである。

 しかしながら、ここで改めて指摘しておきたいのは、そもそも、ある物語が〈本格ミステリ〉として意味づけられるためには、そのつど、実はかつて一度もアクチュアルな形では存在したことのないこのジャンル(の系譜)をバーチャルな次元で捏造する必要がある、ということである。〈本格ミステリ〉は「見えるし、触れるし、声も聞こえる」が「存在はしない」幽霊のような代物であり、だからこそ、ある物語が〈本格ミステリ〉であるか否かは、物語の構成要素によってボトムアップで決定されるのではない。(故に、「『〇〇』は実質、本格ミステリである」という主張は、他愛ない冗談の域を出ることがない。)

 かつて千街晶之は、「終わらない伝言ゲーム」というフレーズによって、「先行作品」から発信されたメッセージが伝達の過程でつねに変容しつつ、新たな物語を(再)生産してゆく歴史として「ゴシック・ミステリ」の系譜を描き出した。英国のゴシック・ロマンスに始まった「伝言ゲーム」のその時点での終着点はたまさか、「保守的ミステリファンの怠惰なまどろみに一撃を喰らわせた前衛派ジャパネスク・ゴシック」たる『姑獲鳥の夏』であった(千街晶之「終わらない伝言ゲーム ゴシック・ミステリの系譜」)。

 『姑獲鳥の夏』が島田荘司の出現から〈新本格〉ムーブメントに至る一連の作品群の「影響下」にあることは、この物語が〈本格ミステリ〉の系譜になんの違和感もなく収まることを意味するわけではない。確かに、『占星術殺人事件』や『斜め屋敷の犯罪』が存在しなければ、京極堂の能弁詭弁も榎木津礼二郎の傲岸不遜も関口巽の卑屈鬱屈も生まれず、数多のアイディア(あの〈密室〉の構成原理など、ほんの序の口にすぎない)によって組み立てられた物語の構造が、このような形をとることはなかったかもしれない。だが、『姑獲鳥の夏』と〈本格ミステリ〉の間には、無視し得ない「齟齬」があることも、確かなように思われる。

 この齟齬は、「伝言ゲーム」内部での〈オマージュ〉と〈パロディ〉の差異と言い換えてもよい。「保守的ミステリファン」が『姑獲鳥の夏』に反発したのは、オマージュ的文脈に慣れ親しんだ読者が突然パロディに直面させられて、両者を見誤ったことに要因がある。〈新本格〉ムーブメントはオマージュに生まれ繁栄し、パロディを経て円熟し、おおむね終息に向かっている。すでにして〈新本格〉の内なるパロディとして出発した〈百鬼夜行シリーズ〉は、〈本格ミステリ〉あるいは〈新本格〉の枠を超えた場所で読者を獲得しつつ、17年のブランクもものかは、依然増殖の途上にある。

 読者は長い長い坂道を登って、そのぬえのごとき異貌を追いかけ続けているのである——坂のたぶん七合目辺りで、強い眩暈を覚えながら。

(赤い鰊)


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