京極夏彦〈百鬼夜行シリーズ〉全レビュー|第9回:『百鬼夜行 陰』
物語とはつねに書き直されたものであり、あらゆる創作行為はすべて「重ね書き」である。それは明示的には、パロディであったり、パスティーシュであったり、リメイクであったり、インスパイアであったり、ノベライズであったりする。前世紀の文学理論が定式化したこのような文学観は、京極夏彦の作品のあり方を、ある程度説明してくれる。
『百鬼夜行 陰』には複数のバージョンが存在している。具体的には、『小説現代』誌上で発表された短篇に書下ろしを加え、講談社ノベルス(→講談社文庫)として上梓された後、文藝春秋(→文春文庫)の「定本」版、さらに再び講談社ノベルスで刊行された「完本」版が世に出ている。つまり、大きく分けて3種類、細分するなら5種類の版が流通しているのだ。
これほどまでに異本が出版されねばならない事情は不明だが、すべての版について改稿や例の改行調整が施されているというから、短篇集といえども、大長篇に劣らず手がかかっているといってよいだろう。中近世の説話集のごとく、登場人物や物語の展開は共通していても、細部の表現や物質的な読書体験は異なるという事態が、ここには発生している。
説話集といえば、よく知られた偉人や英雄を主人公にして新たな説話を生み出すこと——いわば「二次創作」——は、古来珍しいことではなかった。むしろ、それこそが創作行為の本質なのだといえるかもしれない。「外伝」として書き直される小説。その現代的なあり方を自覚的に示してみせたのが、この『百鬼夜行 陰』なのである。
たとえば収録作「文車妖妃」は、『姑獲鳥の夏』に登場した久遠寺涼子が主人公の短篇である。作中人物も語られる出来事の経緯も、『姑獲鳥の夏』の読者であれば、ほとんど「読んだことのある話」ではある。だが、あれほど重要な位置を占めながらも視点人物にはなれなかった——なりえなかった——涼子の視点から語り直される物語は、決して既視感に収まりきるものではない。涼子にしか見えていなかった「モノ」が、そこにはありありと描き出されているのだ。それは妄念といっても、幻覚といっても、過去といっても、執着といってもよい。他人や世間一般の世界像と、個人の脳髄に映る世界像との間の歪みが膨れ上がり、閾値を越えたとき、産み落とされる存在。——それはすなわち、「妖怪」である。
「文車妖妃」の物語はその構造においても、『姑獲鳥の夏』と対応している。姑獲鳥は京極堂によって落とされるが、文車妖妃という妖怪に対しては、涼子自身によって、合理的な説明や抑圧が試みられる。しかしその試みは、そもそも涼子には妖怪の名前を特定することができず、知識も経験も技術もない以上、失敗に終わるしかない。「憑物落とし」は、読者の仕事である。
「文車妖妃」の他、『姑獲鳥の夏』から『塗仏の宴』に至る作品群の登場人物が再登場する本作には、不安定な独白や会話劇による認識の追求など、〈百鬼夜行シリーズ〉で繰り返し用いられる手法や構造が、凝縮した形で示されている。推理小説のフォーマットに当てはめれば「解決篇」に相当する京極堂の「憑物落とし」が介在しない、純然たる「妖怪小説」を体現する本作にこそ、京極夏彦の小説作法は、明瞭に現れているのである。
(赤い鰊)
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