映画「ジョーカー」はハッピーエンドである

私は主張したい。
「ジョーカーはハッピーエンドな映画である」
というのも、この記事を読む人の大半はこの映画をハッピーエンドであるとは、思っていないようであるから。
みなさまと私には意見の違いがある。
だからこそ、私は主張できる。だからこそ私は主張する。
いや、正直にいう事にしよう。私はこの記事を読む人の思考をひねくり回したい。愉快犯である。

「喜劇か悲劇か、それは主観の問題だ」とジョーカーは主張する

物事の解釈によって物事は変化するだろうか?と聞かれたら私はYESと答えたい。解釈とは物事に対する態度につながる、態度が違えば行動は違う。行動が違えば結果が違う。
主人公のジョーカーこと、アーサー・フレックスは人生に対する態度を改めてジョーカーとなるが、これはハッピーな転向である。彼はカウンセリングも精神科医からの薬の処方箋も必要ない人間になる。
それにもう彼は笑えないクラウンではない。もちろん無邪気に笑えるクラウンでもないが......ジョーカーになり彼はいてもいなくても同じ人間ではなくなる。この映画は物語の道筋を変える力を持つ主人公になる話だ。
どうもやはり、ハッピーエンドのようだ。

ゴッサムシティは大混乱なので

まぁもちろんゴッサムシティ―は大迷惑の死体モリモリで治安は悪化の一途となるので、死人の数としてはアンハッピーなのだが、映画的には8:2で主人公の方が大事なので、やっぱりハッピーエンドである。

あるいは主観の問題として

主人公アーサー・フレックスの行った意識の回天を我々もやってみるとすると、やっぱりハッピーエンドである。
(まぁこんな意識の回天をしなくても済む人生の方が幸せだろうとは思う。)

ジョーカーはゴッサムの街を憎んでいない
ジョーカーはバッドマンを憎んでいない
ジョーカーはバットマンと戦っていない
ジョーカーはバットマンを倒そうとはしない
ジョーカーはバットマンと楽しく遊んでいる
ジョーカーはバットマンとゴッサムの街で楽しく暮らす

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