寅さんの吸引力の分析

youtubeのお勧め動画で、寅さんの男はつらいよの場面が5分ほどで紹介されていた。かなり前に1、2作だけ見て、「で?」という感想だったが、なんとなしにyoutubeの動画を観てみた。おそらく名場面のひとつだったのだろう。妙に心に残ったため、Amazonで3作観てみた。

昭和50年1975年 人口が約1億1200万人だった時に、約213万人が第16作目 葛飾立志篇を劇場で鑑賞したという記録が残されている。ザ・ドリフターズの映画とセットで鑑賞できるという点や、映画以外の娯楽が貧弱だった点を踏まえても、人口の約2割が映画館に足を運んだということは驚異である。他の人はテレビで鑑賞したことだろう。つまり、4〜5割の人がその映画を鑑賞したと想定すると、日本人の目と心に浸透した作品と言える。

ハライチ岩井が初めた観た「寅さん」にイライラ ラストで涙した理由に書かれているように、寅さんと同世代ではない私も、寅さんに共感できることが少なく、違和感を強烈に感じた。しかし、2作目を観て、ようやく分かった。当時の人々が何を感じ、足繁く映画 男はつらいよを観続けたのかを。

旅から帰って来た寅さんは、思春期の中学生のように、繊細で、傷つきやすい。卑屈なまでに気遣う家族に向かって寅さんは言いがかりを付けて切れに切れまくる。DVやパワハラ、セクハラが当たり前の時代、切れに切れまくる上司や親はそこら中にいた。うようよいた。その理不尽な様子は多くの人の日常であり、観客は、その理不尽に耐える家族に同情し、自分達の悲しい境遇をこの映画は分かってくれていると納得し、自分達を慰めた。

高度経済成長の真っ只中であり、経済格差は縮小しつつも、テレビをつければ信じられないような良い暮らしをしている人達の様子が映し出されている。また長時間労働は当たり前で、残業後の上司との飲み会も、取引先との接待ゴルフも仕事の内で、男には自由な時間がほとんどなく、自分自身を奴隷だと思い込むようになっていた。その時に、あっちふらふら、こっちふらふらと旅し、かわいい女性に親しげに近寄れる寅さんは、彼らの身代わりとして、自由を謳歌してくれる憧れの存在だった。しかも寅さんは家族や他人に当たり散らしても、すぐに許されるのである。パワハラをされ続けている自分達の鬱憤を晴らしてくれる寅さんの破天荒さも憧れであった。

しかし、憧れの存在ではあるが、スーパーマンのように完璧な存在ではなく、家族やご近所さんからは馬鹿にされ、実に頼りなく、すぐに失敗をしてみっともない。つまり、観客も一緒に寅さんを馬鹿にした。時に憧れ、時に馬鹿にできるという、観客にとって完璧なサンドバックが寅さんだった。

ハイウッド映画では、超人達がまれに失敗をして人間味を出すことはあっても、超人達が観客に馬鹿にされるほどの状況になることはない。あくまでも超人であり、憧れの存在という一線は厳密に守られる。バットマンやジェームズ・ボンドが死にかけても、それはピンチな状況というだけであり、観客はこぞって彼らが復活することを願う。不幸な人間が華麗に逆襲をするという映画「ジョーカー」においても、観客がジョーカーに同情することはあっても馬鹿にする要素はなく、最終的に半超人になれたジョーカーに憧れを見出す観客も多かっただろう。

寅さんに話を戻すと、寅さんの特技は、人情の機微や礼儀をわきまえていることである。パワハラ、セクハラがデフォルトの時代に、女性よりも相手の気持ちを繊細に汲み取れることは驚異的であり、その点で寅さんは半超人だった。パワハラ、セクハラがデフォルトだったことで、多くの男性は、自分だけは他の粗悪な男性とは違い、女性の気持ちを理解できる、女性に信頼される男でありたいという願いを現代よりも強く持っていた。人口が爆発している時代は、競争はより過激で、隣の男性には負けることだけはしたくないという、恋愛にすら競争原理を持ち込む単細胞な男性ばかりだっただろう。自分達が匍匐前進をして、女性に対してもがき苦しんでいる隣で、寅さんは自分達よりも遥か前を悠々と走っている。寅さんが彼らの先生になった瞬間である。しかし、寅さんは最終的に綺麗な女性に見事に振られ、多くの男性は先生すらも嘲笑うことができるようになるのである。

人情の機微をわきまえている寅さんは、他人にもその特技を発揮することを期待する。自宅の近所から自宅に電話をして、妹のさくらに「今から兄ちゃん、家に帰るから、すっと入りやすいように、お前、雰囲気作っとけ」と言い放つ。この一言には笑った。一体全体、何をしとけと言うのか。しかしさくらは実に嬉しそうに家族の者に兄が帰ってくることを伝えながら、何とかしようとするのである。健気としか言いようがない。

本映画には、勧善懲悪の映画ような分かりやすい正義はなく、サザエさんのようなのっぺりとした安心感もない。あるのは、様々な感情を散らかし放題にする寅さんである。その寅さんを通じて、観客は非日常という娯楽を体験をする。そのために彼らは「あいつのドタバタ劇を俺が観てやらなかったら、あんなしょーもないもの、観てやる奴なんかおらんやろ」と嬉しそうに愚痴りながら映画館に足を運んだことだろう。


と、当時の人々が何故映画 男はつらいよに熱狂したのかを分析、予想してみたが、全く外れていたら、ご愛嬌である。

p.s.
腐り芸人のハライチ岩井氏が、「男はつらいよ お帰り 寅さん」で、初めて寅さんを観たにもかかわらず、最後で涙を流したと記事に書いているが、後にゴッドタンで「いや、あれは、最後に感動したと書けと上から言わされたから書いただけで、実際には泣いてませんよ。泣けるわけないじゃないですか。あんなパワハラオヤジを観て。」と言うに、3,000点。

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