感想:実写版 耳をすませば

映画の実写版「耳をすませば」を鑑賞した。
まず、「耳をすませば」と私の馴れ初めから話そう。
「耳をすませば」原作 柊あおい
少女漫画誌の3大巨頭、りぼんで超絶人気を博した「星の瞳のシルエット」や「銀色のハーモニー」を描いた作者である。
そう、250万人乙女のバイブルの作者だ。
その柊あおいさんが「星の瞳のシルエット」の後に連載を開始したのが

「耳をすませば」

何を隠そう、私は原作のリアタイ世代である。
中学校男子がなぜりぼんを愛読していたのか。
妹が読んでいたからだ。
よく、ジャンプで黄金期(ドラゴンボール、スラムダンク、幽遊白書?)の議論がされるが、その頃のりぼんも「ちびまる子ちゃん」や岡田あーみんの「こいつら100%伝説」などギャグ漫画が豊富で、中学生男子が読んでいても違和感はなかった。
ちなみに妹は二人いて、一人はりぼん、一人はなかよしを購読していた。
なので、「美少女戦士セーラームーン」もリアタイ世代である。あとは「ミンミン!」が好きだった。

掲載は1989年8月。主人公の月島雫は中学校1年の設定。
何を隠そう、私は1977年3月生まれ。1989年は中学1年生。
完全にリンクしていたのだ。
「耳をすませば」を始めとするりぼん掲載漫画のキラキラした学生生活は異世界のようで、男女がキャッキャウフフする様は羨ましくて、そんな学生生活を夢見ていた。恋をする雫たちに憧れた。
現実は校則で丸坊主頭で勉強と部活に明け暮れるしかない学生生活で、中学生になってもドラボンボールごっこなどをしていた。ギャリック砲対かめはめ波。黒歴史である。

とにかく、私は「耳をすませば」にどハマりした。
かといって図書室で本を借りまくるなどはしなかったが。
せいぜい漫画を読み直し、夢想するくらいで。
漫画の中の月島雫に恋するなどはあり得なかった(好みでないというか、そこまで魅力的なキャラクターではないと思う)。ただ、天沢聖司が描いた雫をモデルとした絵画の雰囲気は好きだった。
ちなみに、いわゆる二次元嫁と呼ばれる最推しキャラクターはアニメ「ふしぎの海のナディア」のナディアだったがここでは割愛させてもらおう。

そして、「耳をすませば」は唐突に連載が終了した。
あっという間だった。不人気による打ち切りである。
だが、「耳をすませば」の世界観、柊あおいのタッチが好きな私はりぼんコミックスを購入した。銀色のハーモニーも買った。ついでに言えば他の作者の漫画も買った。谷川史子の「くじら日和」とか。谷川史子の絵のタッチ好き。「耳をすませば」は文庫版も後日購入している。度重なる引っ越しでロストしてしまった。また買おう。
とにかく、私は次作の「銀色のハーモニー」をりぼん本誌で読みながら、「耳をすませば」のコミックスを何回も読んだ。

それから数年後の1995年7月。冴えない青春を過ごす私に転機が訪れた。ご存じ、

アニメ映画「耳をすませば」

である。

私は当時、広島大学に進学しており大学1年生。夏休みの時期である。
夏休みに実家に帰省していた私は都城市中心市街地にある千日通りの映画館、シネポートに映画を見に行った。移転前。2階建ての思い出の映画館である。社会人になってからも何回か行った。古くて雰囲気があった。

いまだに鑑賞時の感想、情景が思い浮かぶ。
川沿いの土手を歩くエンドロールを見ながら、私は頭を下げてこう呟いた。

こんなの、「耳をすませば」じゃないー

いわゆる原作厨である。
しかし、腐っても(別に腐ってはいないが)ジブリ、アニメ映画「耳をすませば」は地上波等で放映された。何回も何回も。文句を言っていた私だが、やはり観てしまう。繰り返し見るたびに、いや、これもアリじゃね?という意識から、アニメ映画もいいじゃん、と思うようになった。
特に天沢聖司の屋上呼び出しの下りは、原作漫画より甘酸っぱい。
雫の「こらー」という棒読み演技も素晴らしい。
大学生、社会人となった下の妹と一緒に鑑賞して、画面の前で悶えたりもした。カントリーロードは映画と一緒に歌詞を見ずに口ずさめる程になった。
初めて雫と聖司がセッションした時の絶妙な音痴演技は神がかっている。
遂に、ブルーレイディスクを買うまでに成長したのだ。

そして時は流れ2022年10月。
ここで満を持して登場したのが

実写版 耳をすませば WHISPER OF THE HEART

である。勝手に副題がついている。いきなり減点対象だ。
なぜ人はこうも副題をつけたがるのか。
こないだ見た映画、ヘルドッグスもIN THE HOUSE OF BAMBOOという副題がついている。バンブーハウスなんか最終盤くらいしか絡んでないじゃん。
副題が許されるのはスターウォーズとかハリーポッターとかシリーズものぐらいだろう。

さて実写版。映画冒頭数分、頭が混乱した。
「耳をすませば」から10年経過して大人になった二人、というぼんやりした情報のみ。ここで問題になったのは、どの「耳をすませば」から10年なのか、ということだ。

「耳をすませば」は原作漫画とアニメ映画版、2つの世界線が存在している。実写版は一応、原作は漫画の方となっているが、天沢聖司が音楽の道に進むことや、ムーンが黒猫ではないこと、雫の服装などを見ればどう見てもアニメ映画準拠だ。

そう、これはジブリのアニメ映画「耳をすませば」が原作なのだ。
Twitterでの感想を見ても原作はあたかもアニメ映画と捉えているようなTweetが多い。
原作を越えて、アニメ映画「耳をすませば」がそれだけ世界に広く認知されているということだ。本家を乗っ取り、アニメが本家になってしまった。

さて、ここで実写版「耳をすませば」の感想を一言であらわそう。

こんなの、「耳をすませば」じゃないー

アニメ映画版を見た感想と同じだが、ここでの「耳をすませば」は
原作漫画でもあり、アニメ映画版でもある。
つまり、どっちに取っても認められないのだ。

アニメ映画版の熱狂的なファンほど、今回の実写版の改変は許せないだろう。「耳をすませば」と言えばカントリーロードであり、翼をくださいではないのだ。大人の事情?知ったことか。そこを曲げるなら最初から別の作品を作れば良いではないか。

アニメの設定をベースにした、オリジナルの作品を作れば良いのに、過去回想のパートはほぼほぼアニメ映画の焼き直しであり、アニメ映画の再現VTRを見せられているような気分になる。服装なども寄せ過ぎている。エンドロールの堤防なんかもアニメ映画版のファンに「これ好きでしょ?」というドヤ顔がチラチラする。監督とかプロデューサーの顔知らないけど!
一方で、10年後の舞台であり、モブではなく話に絡んでくるオリキャラ、サラ。存在が中途半端で、天沢聖司との関係や清算も深掘りされない。
一体、この映画は何がしたかったのだろうか。

私は、映画を過去何本も観て、成長して心が汚れてしまったのだろう。
それでも、アニメ映画「耳をすませば」を観たら心が浄化される。
しかし、実写映画「耳をすませば」では心が浄化されないのだ。
あろうことか、荒んでしまいすらある。

それと、気になった点をもう一つ。
なぜ10年後の「耳をすませば」を今頃やるのか、ということだ。
実写版「耳をすませば」の設定は1998年。
ダッフルコートだったり公衆電話だったり、雫のセーターがクソダサかったりと、1998年感を出しているのは認めるが、今は2022年だよ?
24年前のお話を見せられてるんだよ?昔話じゃん!
今の若い子たちが24年前のお話を見せられて、ワクワクする?

どうせやるなら1995年から27年後の、2022年、15歳+27年の42歳の月島雫と天沢聖司の物語を作ってほしかったよ。二人の子どもが主人公とかのさあ。結ばれたかどうか(父親が誰か)は母親の回想で想像するとかさあ。誰か作ってくれないかな。シン・耳をすませば。

Twitterでの感想を見ると、「感動した」「泣いた」という感想も多い。一方で、厳しい意見も散見される。
それだけ、アニメ映画版「耳をすませば」がみんなに愛されていたことの証明だろう。既に、原作漫画を超えて、アニメ映画版「耳をすませば」がみんなの中ではオリジナルの「耳をすませば」なのだ。
今回の映画で、いかにアニメ映画版「耳をすませば」が素晴らしい作品だったかを再認識した。こんなの「耳をすませば」じゃないーと抜かしていた私がだ。

漫画やアニメの実写映画化は地雷が多い。
今回も地雷を踏んでしまったと言わざるを得ない。
だが、ハリウッド実写版ドラゴンボールに比べれば傷は浅い。
実写版「耳をすませば」も繰り返し見れば、感想も変わるだろうか。
いや、期待はできなさそうだ。


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