見出し画像

アンコントローラブル

制御できないことはこわい。
自分の手に負えない、終わりがみえない。
実態のみえない大きな力に飲み込まれる不安。

ケセラセラな次女とは真逆の、いつも生真面目できちっとしていたい長女。
彼女がいま恐れているのは、女性の体だ。


彼女は、母を通して生理を知った。
私の生理周期はきわめて不順なので、いつはじまるか、いつ終わるかをよく娘たちは気にしている。
ひとたび始まれば10日以上続くため、その期間は一緒に湯船に浸かることができない。まだ幼い子たちだけですべてを済ませることは難しいので、洗い場までは付き添うのだが、その間はどうしても鮮血をみせてしまうことになる。

以前noteの記事にもしたように、生理という事象の理屈や意義は、すでに彼女は心得ている。


早ければ5年以内には、彼女にも起きることだ。

「ねぇ、どうしてもさけられないの?」
「そうだね、女性の体で生まれて女性として生きていくなら、どうしても付き合っていくことにはなるね」
「わたし、それはしかたがなかったとしても、こどもはうみたくないなぁ」
「それは長女の自由だよ。体に仕組みがあったって、何を選ぶかは長女が決めていいことだから」
「こどもをうまなくても、おちちはでるの?」
「でないと思うよ。何か出てきたら、一度お母さんやお医者さんに相談してもいいかもね」

なるべく彼女に不要な怖さを与えることなく、生きていく上で最低限の知識は伝えていきたいとは思っている。
事前に頭の片隅に情報を入れておくことで、いざという時落ち着いて対処するか、助けを呼ぶのをためらわずできるようになればいい。


人間もやはり動物なのだな。
二度の妊娠出産を経て実感したことだ。

ただの母になった丸腰のヒトは、急激なホルモンの変化になす術もなく、ただ毎日息をして2、3ヶ月ベッドの上で事態が落ち着くのを待った。
出産、授乳時はまさしく自分が動物であることを自覚した。
そして産後続く寝られない辛さ、身体の圧倒的消耗、切ったはずのへその緒がまだまだ繋がっているような庇護欲。
理性というよりほぼ本能で生きていた。


少なくとも妊娠は、しない選択をするならば、手を尽くしてある程度回避することはできるだろう。
しかし、大きな自然の摂理の中で、望む望まないに関わらず、無作為の平等のもとに降りかかるものはどうしても存在するのだ。
まさに生理もそうだが、病もそうだ。
どんなに体に気を遣っていても生活習慣が乱れに乱れていても、かかる人はかかり、かからない人はかからない。


卵巣のう腫という女性特有のトラブルがある。
卵巣にこぶのようになる腫瘍で、そのほとんどが良性といわれるが、20代でもなりえるものだ。
腫瘍の中には脂肪、髪の毛、歯、なんと骨や皮膚などが出てくるケースもある。原因は定かではないが卵子の自家受精という説もあり、受精していない卵子が分裂して人体を勝手に作り出してしまうという。
長女が聞いたら3日は寝込むに違いない。

また、私の父側ががん家系である。
父をがんで亡くし、父のきょうだいもまた治療中で、遺伝性のものであるという検査結果も出ている。
私も近い将来かかるだろうと、健康診断は必ず受けているが、身内が遺伝性と判明していると受けられる検査もあると聞き、近々受診する予定だ。

まだまだ、こどもたちの成長がみたい。
彼女たちといろんなものをみて、話して、生きていたいのだ。


つわりといえば、先に母親となった友人が、
「お抱えの棟梁がさ、子宮を急ピッチで突貫工事してるから。しんどくて無理ないんだよ。あとは1日でも早く完成させてくれるよう応援するしかないよ」
と、なだめてくれたことがあった。
苦境に立った時の最後の切り札は、やはりユーモアなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?