土瓶のふた(19)
二カ月が経って、初枝さんは退院した。ほぼ同時に拓も戻ってきた。初枝さんの退院後に、この家に住む人の組み合わせをいろいろと考えていたが、結果はあっけないものだった。もし私が離れを引き上げれば、隆さんも奥さんも戻ってくるんじゃないかと言ってみた。それに対する初枝さんの答えは、「まあ当分はないわ」だった。彼女の真意を探るのは野暮だった。隆さんの奥さんは、入院中に一度も顔を見せなかったようだし、初枝さんを見ていると、それも無理からぬことだと思える。私はまだここにいてもいいのだ。少なくとも、初枝さんが、元通り歩けるようになるまで、そっとしておくのがよさそうだった。
私には、今、角を曲がったときのような新しい景色が見えていた。おそらく初枝さんも拓も、めいめいの角を曲がったのだと思う。
しばらくして、初枝さんは、ちぎり絵を完成させた。近くで見れば、文字や数字や靴やベッドや冷蔵庫があっち向きこっち向きしている。だが、少し離れたところから目を細めて見ると、都会に沈む夕日にも、街の夜空に浮かぶ満月にも見えた。紙のごわつきも、点字の突起も、めくれ上がった紙片も、作品に趣を与えていた。それはかつて、初枝さんが六甲山頂から見た暮れ方の景色にほかならなかった。
初枝さんは紙切れの入った箱を隅に寄せてから、作品を端から丸めていく。がやがやと音を立てながら、のりで波打った新聞紙の長い筒ができた。
「それ、どうするんですか?」と私は聞いた。
「もうこれは、終わったことよ。穴をふさいだからね。私の手から離れてしもたわ」
こともなげな口調とは裏腹に、初枝さんは丸めた作品を両手の中で、くるくると巻き続けた。大きく膨らませたシャボン玉が、ストローの先から離れて飛んでいくときの、あの寂しい余韻が、よみがえってくる。
「それ、私にもらえませんか?」私は言った。「平山さんに写真をとらせてあげたいんです」
初枝さんの表情が、わずかにほころんだ。
「好きにしてちょうだい。こんなの、古紙回収にも出せないんだから」
その日は朝から、降り残した梅雨の雨が降っていた。平山さんが来ると言うと、初枝さんはちぎり絵の部屋に、今年始めてクーラーをつけた。拓は朝からそわそわしていたが、平山さんの姿を見ると、奥の部屋に引っ込んでしまった。
平山さんはさっそく撮影の準備に取りかかった。カメラを三脚に取り付けて、縁側を背にして三脚をすえた。
「平山さんはしばらく絵の前にたたずんでから、
「これ、僕の傑作にさせてもらいますよ」と言った。
「任せた!」
私は平山さんのボーダーのTシャツの背を平手で勢いよくたたいた。冴えた音とともに、痛みと汗の感触が手のひらにじんわりと残った。
平山さんは絵の上部に裏からガムテープを貼って補強してから拓を呼んだ。縁伝いに現れた拓は、しぶしぶというふうを装って、操り人形さながら絵のそばにくずおれた。
「じゃあ、拓君はこっち持って、山口さんはそっち。吊り下げてとるから」
私と拓は位置に着いて構える。
「いくよ、せーの」
私の合図で、ちぎり絵は、ざわざわと立ち上がった。
「いいね。拓君はその高さでいい。山口さんはもうちょっと下……、はいそこ」
正面から放たれるシャッターの連続音が、私の耳の奥底で、初枝さんの打つタイプライターの音に重なった。
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