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怒りのゼロエミッション

最近、めっきり怒っていない。
最後に怒りに震え、怒髪冠を衝いたのは、いつだっけ。

職場の上司の頓珍漢な発言や、目的がハッキリしない仕事も減ってないし、無意味極まりない業務に、一瞬イラっとすることはあっても、机を叩いて抗議の意思を示したくなる程では無い。リモートワークだから、恥ずかしがることなく、机を叩いても良いというのにだ。
友だちのデリカシーの無い発言や、後輩の無礼、先輩の理不尽さにも、ブチ切れることは無い。
「あ~イラっとするな。でもまぁ、この程度なら良しとしよう」みたいな感覚だ。

先日、姉と一緒にたこ焼きを買った。
店の行列はさほど長くなかったが、店員の手際が恐ろしく悪かった。
器に盛られたたこ焼きが複数あるのに、ソース・マヨネーズ・青のり・鰹節を一皿ずつかけていくので、たこ焼き→ソース→マヨネーズ→青のり→鰹節そしてまた、ソース・・・を繰り返すという、時間がやたらかかる作業の仕方をしていた。(ソース×たこ焼きの器の数)→(マヨネーズ×たこ焼きの器の数)→(青のり×たこ焼きの器の数)→(鰹節×たこ焼きの器の数)にすればいいのにと、並んでいる客の誰もが思っていただろうし、彼の手際の悪さに、苛立っている空気が店中に充満していた。当の彼は、カウンター越しの殺気が伝わっているようで、おどおどしていて、更に手際が悪くなっていた。

私は、「飲食店、サービス業の人材不足故に、誰も教える時間も無いし、彼は臨時のアルバイトなのかもしれない・・・本部がもうチョット効率良く回転するように工夫すればいいのに・・・」とか、「この若者はきっと急かされたことが無いか、急かされてこのスピードなら、チョット厳しいなぁ」などと思い、どちらかというと同情的な目で、彼のおぼつかない手元を見ていた。
しかし、姉は怒り心頭だった。店員に怒りをぶつけることは無かったが、店を出た途端に、罵詈雑言を言い放っていた。ボン〇ラとか、ボーっとしや〇って!クソ!使え〇いな!などなど。そこそこの声のボリュームで話していたので、向こうから歩いて来る人が道をあけるし、すれ違った人が振り返っていた。姉は爽やかな秋空の下、たこ焼きの匂いとともに、道端に暴言を振り撒いていた。姉は実に香ばしい品性の持ち主だ。親の顔が見てみたい。
姉の怒りに一部は同意するが、あのシチュエーションに対する怒りや、私にほとんど関係の無いあの若者に対して、イライラしても、イライラした後に、自分に対して後味が悪くなることの方が、嫌だった。
他人に対して怒りをぶつけると一瞬スッとするが、その後の嫌悪感に耐えられないのだ。
だから最近私は怒ることを辞めてしまった。
良くも悪くも、怒りという排出物のゼロエミッション化が進行中だ。

文章に起こすと、大変穏やかな性格、人となりだと思われそうだが、それもこれも、訓練や鍛錬の賜物ではなく、単なる老い衰えだと思う。
前回も書いたが、悲しいこと、辛いこと、きつい状況に直面しても、それを嘆き悲しむ集中力が無くなっていることと、非常に関連性が高いと思う。
年を取り、感情が揺さぶられなくなっていることの一種だろう。
こういう状態を『老成』と言うのだろうか。

しかしそんな怒りのゼロエミッション化だが、まだまだ完全ではない。
すぐに無駄な買い物をしてしまう自分、朝起きれない自分、スケジュール通りに行動出来ない自分、出かけるまでに時間がかかり過ぎる自分、部屋が散らかっている自分、何でも三日坊主な自分、・・・ダメな自分に対しての怒りは、日夜湧いてくる。
自分に対する怒りは、何かの結合が間違い、呆れにも変換される。
怒りが二酸化炭素だとすると、呆れは一酸化炭素だろうか。

感情のゼロエミッション化は、老化現象の一部。
怒りの次に、どんな感情が排出されなくなるのだろうか。
それはまだ私にも分からない。

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