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お腹いっぱいの子どもと餓死する子どもが同時に生きる世界で

私は子どもが夢中でガツガツご飯を食べている姿を見ると、みぞおちの奥の方から何かが押し上げられるように幸福感に満たされて泣きそうになる時がある。
我が子が生きていると言う躍動感を感じれるからだと思う。

昨日半期に一度のその波が来て、
その姿に幸福感を覚えながらも、
いつもと違う複雑な心境になった。

理由は、
頭の中で2つの景色がよぎったからだ。

今戦地となっているガザで生きる子どもたちと
バングラデシュで路上生活をするストリートチルドレンと言われる子どもたちだ。
ガザでは虐殺が起こっているだけでなく、飢えてなくなる子どもたちも多いという報道を見た。

社会活動家の藤原ひろのぶさん主催のGood
Earth Storeでストリートチルドレンのギフトフード継続支援に登録したことがきっかけで、もしかしたら国外で食べることができない子どもたちの問題が、自分ごとになったのかもしれない。

私がこれまで子どもの貪り食べる姿にうっとり幸福感を抱くだけで終わることができていたのは、
これらの問題をうっすらと知りつつも、
自分には何もできない、関係ないと言って
一線を引いて生きて来た証拠だと思う。

ニュースや動画で痛ましい映像を見て可哀想と思っても
私には関係ないと切り離してきたし、目の前の生活や子どものことで精一杯だと思ってきた。(実際精一杯だ)
いつか、余裕ができた時に寄付しようかなとも。

私は一体どこで線を引いてきだんだろうと考える。そして今はどこに線を引いているのだろう?とも。

家族?友達?地域?足立区?東京?日本?

今目の前にある食べ物は、
私の口に入った瞬間私となるなら、
その食べ物の種を植えてくれたところから私は始まっているのかもしれない。

私のお腹から出てきたこの子は、いつから自分じゃないんだろう?お腹の中でも1人の人間として一生懸命生きていたじゃないか。

どこまでが自分でどこまでが自分じゃないか、全然わからないから、自分の心が動く範囲を自分と呼ぼうと思う。

心が動いたら、哀れむより、行動したい。

例え、変化を生み出せなかったとしても。

***

私の友人で、子育てをしながら、
政治や経済を地道に学び、SNSで発信など目立ったことをせず、ただ自分にできる市民活動を見つけては参加し、コツコツと活動を続けている人がいる。
彼女はお金が厳しくバイトしないといけない状況の中、遠方から私の選挙を手伝いにきてくれた。
バイトは深夜のコンビニ。セブンイレブンで。
今もずっと寝る間も惜しんで働いている。
その彼女が石川県の被災された障害者のために、車椅子を寄付していたことをたまたま知って、心底彼女とのご縁を誇りに思った。

そして、
昨日たまたま、ユダヤの強制収容所で死を待ちながら最後の一切れのパンを差し出せる人がいた、という投稿を見た。

たくさんの富を持っているかより、
心の動くところへ分け与えられるかどうか、助けたいと思った時に差し出せるという行為、それこそが豊かさなのではないかと私は感じる。

わたしもそんな人間に必ずなる。

(ここまで読んでくれてありがとう。

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