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グリーフをうまく扱えない社会で、グリーフについて書く

「グリーフ」という言葉を初めて知ったとき、私はいくつだっただろうか。

もう覚えていない。だけどおそらく、その時すでに私はグリーフを抱えて生きていたのだろう。

グリーフは、喪失体験によって心身に表れるさまざまな反応であること、その喪失体験は「=死別」という意味で使われることが多いけど、離別や転居など、死別以外のものも指すということは大人になってから知った。

5歳で父を亡くし、8歳で国境を跨ぐ引っ越しをした。
生活環境も、日常で使う言語も、ガラリと変わった。お父さんはいなかったし、お母さんは資格を取ってフルタイムで働き始めた。周りに自分と似たような経験をした子どもはいなかった。

今思うと、子どもの頃から喪失の多い人生だった。


私はとても人見知りな子どもで、小学校低学年のときは学校にあまり友達がいなかった。
でも、それを苦に思ったり、恥ずかしいと思ったりすることはなかった。

友達がいる楽しさをまだ十分理解できていなかったのあるかもしれないが、何よりも一人の時間を楽しめたからだと思う。
空想をしたり、絵を描いたり、本を読んだり、物語を書いたりするのが大好きで、一人でやりたいことがいくらでもあった。
これは大人になった今でもあまり変わっていない(友達はだいぶ増えたし、いくらか社交性は身についたけど)。

本は、私にとっては会うことも、話すこともない人と対話ができて、まるでその人の視点から世界を見れるような感覚にさせてくれるものだった。
自分じゃない誰かの考え方や感じ方に触れて、インスピレーションを受けたり、元気づけられたり、そっと包み込まれるような暖かい気持ちにさせられたり。
ストーリーには、そういう力があると信じている。

人類はいつでも、ストーリーを紡ぎ、それを共有することで、生き延びてきた。
それは、人の話を聴くだけでなく、聴いてもらう経験をすることが、力になるからだと思う。

そして、それはグリーフにおいても言えることだろう。
自分のグリーフを、否定や評価をされずに受け止めてもらい、ほかの人のグリーフに触れる。
ひとりじゃないことを実感する。

そんな経験が、人間らしい生活を再構築し、送るための手助けになる。


グリーフは、そこらじゅうに溢れている。
ある程度の時間を生きていれば、死別含め、喪失は誰しもが通る道である。
なのに、グリーフについて社会はあまりにも知らないし、タブー視する。
だからこのnoteが、どこかの誰かにとって、小さな小さな「よりどころ」になれたらと思う。

身近な人を亡くした人。
大切な人がそういう経験をした人。
遠くで起きている惨事に、思いを巡らせている人。
そして、これを書いている私にとっても。

グリーフは一人ひとり違う。だから難しい。
わかりやすい答えはないけど、一緒に考えるきっかけは作れるかもしれない。
それだけでも、ひとりじゃないと思えることを願って。

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