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「私の役割。」/ショートストーリー


「笑美子さん。本当にごめんなさい。陸を許してあげてね。」とちいさくなった義理の母が、私の手をとり涙ぐみながら言った。

「お母さん。申し訳ありません。お母さんにはいたらぬ嫁であり、陸さんにはいたらぬ妻でした。」

「そんなこと言わないでね。陸がみんな悪いのだから。」と彼女は頭を下げた。

夫の母である彼女は、タクシーに乗り込むともう一度、頭を下げていた。

今日は夫だった陸の49日。本当だったら、今年結婚30年目の記念に海外旅行をするはずだった。

その海外旅行の前に、2週間近くの出張があった。陸はその出張先で、脳出血を起こして亡くなったのだ。

私もタクシーに乗り込んだ。駅までの15分ぐらいの間、白い真珠のネックレスを指に絡めていたようだ。駅前に着いて、タクシーから降りた時ネックレスの糸がきれてバラバラになってしまった。

歩道に散らばる真珠をひとつひとつひろいあげ、掌にのせていたら、涙がこみあげてきた。

これはいったい、何の涙なのだろうと私は思った。


陸と私は私が大学4年の時に結婚した。地味で目立たないどころでなく、存在感そのものが薄い私とは違い、陸はどこにいても目立ってしまうところがあった。背も高く、顔立ちも彫刻にように端正、それでバスケットの有力選手というのだから、高校生の時からファンのような取り巻きが常に周りにいて、実際に複数の芸能事務所からも、何度か誘われていたらしい。

そんな陸が大学に入学した時には、大騒ぎだった。人見知りの激しい私も一瞬で陸に心を奪われた。初恋だった。勉強と料理以外に夢中になるものがなかった私は、18歳にして初めて恋をした。とは言え、あの修羅場のような取り巻きに入ることはできず、ただ遠くから眺めているだけで私は満足だった。

私と陸の道は、この先もずっと交差することはないと思っていた。だが、陸の取り巻きの中に私の唯一の友達がいた。彼女の名前は、キリ子。キリ子とは、趣味の料理教室で出会った。でも、キリ子は結局自分には向いていないと一カ月でやめてしまったのだが、なんとなく交流は続いていたのである。

陸の取り巻きはファンクラブになっていた。ファンクラブは、ピラミッド状のグループになっていて、それぞれの役割とあるとキリ子から聞いた時には、私はなんだか胸がざわざわしてしまった。なに、それは、どういうことなの、本人はどう思っているのだろう。そして、キリ子はピラミッドの中間層にいるという。

ある日、キリ子から自分の代わりに、陸のお弁当をつくってほしいと頼まれた。キリ子が入っているグループの役割は、陸の食事を差し入れするということだった。

「ねえ、お願い。笑美子の料理は、教室の先生の補助をしているぐらいなのだから、絶対に陸も気に入るはずよ。うまくいけば、私、上のグループに上がれるのよ。」

「キリ子。陸さんのファンクラブって、なにかやりすぎじゃないのかな。」

「だって、みんな陸が好きなのよ。陸のためにしてあげたいのよ。あなただって、陸のこと、初恋だって言っていたじゃないの。」

キリ子が、声あげて泣き出してしまったのと、私も初恋の人のために、お弁当をつくるという夢が思いがけず叶うのだからと、引き受けた。お弁当を渡すときにキリ子は「絶対に内緒にしてね。絶対よ。」と何度も私に念をおした。

弁当のおかげでキリ子は上のグループに上がれたのだが、しばらくしてキリ子は大学をやめて郷里に戻ることになってしまった。弁当の件が、ばれてしまったのだ。ばれたとき、キリ子は取り巻きから袋叩きに近いことがあったようだ。

キリ子は、そのあと私に「ばらしたのは笑美子じゃないわよね。」と聞いてきたが首を横に振るしかなかった。

警察沙汰にはならなかったというよりは、しなかったというのが事実に近いのだろう。大学の体裁がある。陸の親が地元の実力者だったこともある。陸のファンクラブは強制的に解散させられて、みんなが口が閉ざした。陸自身は、健康上の理由ということで1年の休学をとった。それが大学1年の冬だった。

あの冬に、初めて陸と言葉を交わした。問題の弁当をつくったのは、だれなのか知りたかったらしい。

「もしかしたら、私のせいかもしれません。ごめんなさい。」

「君のせいじゃない。」と陸は笑った。

「あのお弁当は、本当に美味しかったよ。あれ以上の食事は一生ないかもしれない。僕は、食事は美味しくないと許せないんだ。合格点の食事は、あのお弁当だった。」

「またつくりましょうか?」

私と陸は交際を始めた。とてもお似合いのカップルとは言えなかった。不釣り合いもよいところだ。私は元ファンクラブからの嫌がらせを覚悟していたが、不思議とそのようなことは起きなかった。

私が、4年の時に妊娠してしまったことを陸の両親は大いに喜んで、結婚することになった。残念なことに子供は流産だったのだが、それでも陸も陸の両親も、以前と変わらなかった。私の両親は、ただ「かわいそうに。」と背中をなでてくれた。

あれから、30年の月日。子供が生きていたら、この30年は違っていたのかしらね。


陸とファンクラブの秘密がわかったのは、妊娠が分かったあとに届いた長い手紙だった。キリ子からだった。

その手紙には、おおよそこんなことが書かれていた。

ファンクラブは陸を愛するものが集まり、陸の生活のあらゆる面倒をみる役割ごとのグループがあり、そのトップグループにはいると、陸のセックスの相手ができること。

そういうファンクラブはすでに中学時代から存在し、陸の親も黙認していたこと。

陸は、セックスせずにいられないこと。

陸自身は、それらについて何も罪悪感がもたないこと。

そのために一時期は、心療内科、脳神経外科に通院していたこと。

その手紙を読んだとき、すぐには私は理解できなかった。理解したくなかった。そして思った。この手紙の真偽をどうやって確かめれば良いのかと。

結局、陸に聞くしかなかった。

「まあ、大体合ってるよ。」といつもの私の大好きなふんわりとした笑顔で答えた。

私は、陸が否定してくれるか、もしくは私が納得するような答えを言ってくれると期待していたのだ。

「何かの病気なの?」

陸が何かの精神疾患だったら、私は許そうと思ったのか、理解できると思ったのか、今でもわからない。

「一番近いのはサイコパスかもしれないね。あと、セックス依存症とか。」と陸は、とても怖ろしいことを普通に答えた。その言葉を聞いたとき、思わず後ずさりした私はバランスをくずして転倒してしまったのだ。

赤ちゃんは流産してしまい、私は頭がおかしくなるぐらい泣くしかなかった。陸の両親は、陸の秘密を打ち明けなかったことを詫びながらもこのまま結婚してほしいと言った。それは息子と家のことを慮って、私個人のことは何も考えてないことはありありと分かった。事情を知った私の両親は「かわいそうに。」と背中をなでるだけで、私にどうしろうとも言わず、陸や陸の両親にも怒ることもしなかった。

陸は私に結婚はどうするのかと聞いてきた。

「笑美子の食事は最高なんだ。一番なんだ。ただセックスは、笑美子だけではダメなんだ。だから、結婚しても笑美子以外の女性とセックスする。」

「陸は私のことを愛しているの?」

陸はどう答えたら良いのか、わからないという顔をしていた。陸には本当に罪悪感がないのだ。だけど、私は陸のことを愛している。陸の秘密を知ってしまった今も。

だから、私はある決意とともに陸と結婚した。

陸は結婚後も複数の女性関係を断ち切らなかった。大学時代のファンクラブは、表面上解散しただけであって、ずっと存在していたのだと知った。ただ、食事だけは、朝晩必ず私の食事を食べていた。外食はほとんどせず、出張などの時は携帯食ですますほどであった。

だからこそ、実行できたこと。陸の食事には、気遣った。少しずつ、塩分や糖分の量を増やしていった。ほんの少しずつ。人間の味覚は濃いもの慣れるとなかなか薄味に戻せない。体重が増えてもよさそうなのに、外見だけは大学時代と変わらなかった。健康診断の値だけが、年齢とともに悪くなる一方だった。いつ、心筋梗塞とか脳出血とかで死んでもおかしくないぐらいに、病気のオンパレードですよと医者は言った。

陸はどう思っていたのだろう。なぜ医者から、処方された薬も飲まず、私のつくる食事についてたずねることもしなかったのか。

今更、考えても仕方ない。私も後悔もしていない。私も、陸と同じ食事をとっていたから陸と同じように、病気のオンパレードで、いつ死んでもおかしくない。

ただ、残念だったのは自宅で、私と一緒の時に陸に死んでほしかった。陸が死んだ時、一緒にいたのはキリ子だった。それが、結婚してから一番悲しかった。

やはり、私の役割は愛する陸を美味しい食事で、できるだけ早く死なせることだったのだ。






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