自戒 速さの争い

怠惰よりウサギが勤勉なカメに速さの争いごとで負ける事もあれば
ウサギが途中で目覚めて、自身の速さでそれを追いつく、追い抜く事もある。
或いは始めから怠惰をしていない、或いはカメの方が遅いのに怠惰をしている。或いは。。。
ああ、わからない、あのアイソポスのおとぎ話に出てくる、実在する瞬間に居るウサギとカメの関わるすべての物理データを
手中にしていない我々に対しては
寓喩(ぐうゆ)、アレゴリー、例え、説道と言うものは大体夢の中で夢を見る事
真理そのものではなく、模型にすぎない
例えば私がその勝負は彼らたちの争う今日の昨日も既についた事を伏せれば
彼らは只勝負もう付いている事も知らずに無意味に争う事だと
読んでいる読者さんはこの真実を知らないだろう
これは「真理そのものではなく、模型にすぎない」
アイソポスのおとぎ話は彼に対しては自分自身の昨日の勝敗のために語る復讐劇です。
ああ、そこでちょっと、
実はこの行「アイソポスのおとぎ話は彼に対しては自分自身の昨日の勝敗のために語る復讐劇」は完全なでたらめです。「読んでいる読者さんはこの真実を知らないだろう」を書いた後でふいに思いついた。

「{彼の自分自身の}昨日の勝敗のために語る復讐劇」この点についても、もしアイソポスを研究する専門家に反問されたら自分は屁理屈で弁護する事しかできないだろう。

しかし屁理屈でもなんとかなれるのは立派な弁護かも
この屁理屈を通じてしか分かる奇妙な世界で。

文学的には、「屁理屈を通じる様に」書けもよろしい。寧ろ文人墨客の醍醐味。屁理屈で世を分析し、自分のけじめで世を解体し料理し幻想の味を作る事。
屁理屈の方が創造力は上です。
しかし、自分は「カメとウサギの争い事」にしか書いていない事を忘れないではならない。
realismとSF dystopia教の連中に笑われたも、役立たずのでくの坊作者、俗人だと、「hack偽物、ぺてん師」だと自分は言われても構わない
我らが文学はアメニモマケズ
無頼により無頼たちのための痴話滑稽劇であるこそ
「人」の悲哀に値する
我が愚者Dionysos
滑稽な悲哀の中で
人の堕落に正邪曲直をわきまえる



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