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コミュニケーション力(りょく)の育て方?

とっても共感するところの多いajekorea先生の記事より。
ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」(1976年)を引用されて、コミュニケーションとは何かということを問題定義されています。

ダイジェストで書くと、アメリカ人であるラミス氏が金沢で「英語で話しかけれてもいいか」と聞かれ、了承するとお決まりのフレーズだけの質問を繰り返した、という出来事。
同氏は「彼はその答えに真実興味を持っていたわけでもなかった。(中略)彼が暗唱した文章は型にはまったお定まりで、(中略)テープ・レコーダーの間でされた会話であった。」と記している。
詳しくはぜひ、こちらで読んでください。

この記事などを読んでから、あれこれもやもやと考えた。
というのは、このアメリカ人ラミス氏は練習台にされて、いい気持ちがしなかったのはそうだと思うけど、話しかけた日本人も練習はしたかったんだろうなあということ。
多分、1970年前半なんて、多分チャンスはすごく少ない!
まして、例え練習したくても話しかける勇気のない人は多いと思われる中、話しかけたこと自体は評価できるのかな、と思った。


コミュニケーションとは「意思伝達」

コミュニケーションとカタカナ英語だと、なんとなく「話しかけた日本人もコミュニケーションしたかったんじゃないの?」と思った。

で、改めてコミュニケーションが何かを考えたら、そういえば日本語では「意思伝達」というのだった!と思い出した。
その態でいえば、話しかけた日本人は何の意思も伝達していないし、親切なダラス氏が答えことから、何の意志も受け取っていないじゃんと気づいたのだ。


言語はコミュニケーションの一ツールでしかない

(字体がこれしかなくて分かりづらいけど、「いちツール」です。
「1ツール」って書きたくない。)

もう20年以上前、私がまだ日本から添乗に出ていたころ、ハンガリーのブダペスト郊外の小さな村でほんのちょっとの自由時間があった。
バスを停めてある駐車場まで帰りは一本道なので、一番奥まで行って解散し、戻ってきてもらうのがお決まりだった。

私が先に駐車場で待っていると、元気な3人組の「オバチャン」たちがわいのわいのと帰ってきた。
「見てみて、これ!」
「1つXXXっていうから、3つ買うからYYYにしてって言ってみたの!」
「そしたら、5つ買うなら、1つ当たりZZZにするっていうから、5つ買っちゃった!」
と戦利品を見せてくれた。

「すごいですね! 英語がおできになるんですか」
と聞くと、
「まさかー!」
「日本語よー!!」
と豪快に笑った。
そういえば、確かにまだそのころ、ハンガリーの、しかも郊外の村ではレストランの人も英語は片言なくらいだった。

これこそ真の「コミュニケーション」だと思う。
商品をお得に買いたいというお客さんと、売りたいというお店の人が、それぞれの意思を伝達しあったのだ!
値段のところは電卓を使ったのか、メモ書きしたのか、実際にお金を見せ合ったのかは分からないけど、数字という共通の記号さえあれば、それも伝え合える。

似たようなことは中国ででもあって、漢字の国では筆談できる。
別にこちらが中国語ができるわけでも、向こうが日本語ができるわけでもないけど、話が通じる。
文字、そして身振り手振りは立派なコミュニケーションツールだ。
言語もそれと同じ価値しかない。
もちろん、言語は身振り手振りよりもっと細かな情報を伝えあえるだろうけどね。


若い日本人はコミュニケーションが苦手?

私も決して自分がコミュニケーションが得意な方だとは思わない。
思わないけど、知らない人とも話せるし、人前で話すのは苦手じゃない。
でも、若い頃はもっと苦手だったかなあ。
このオバチャンズのように、年を重ねるにつれ、結構色々なことができるようになっていくのかもしれない。
それを「面の皮が厚くなる」っていうのかもしれないけど、それで生きやすくなるなら、それに越したことはない。

日本の教育指導要領では外国語学習について、小学校「外国語を通じて,言語や文化について体験的に理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り…」、中学校「簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりするコミュニケーションを図る資質・能力…」という文言が入っているけど、ひょっとして、いきなり「コミュニケーション」が苦手な上に、外国語でやれっていうのは、段階をすっ飛ばしてるんじゃないだろうか。

小学校の国語にも「聞く・話す」みたいな単元はたまにあるけど、ほとんどは「読む」活動だ。
しかもこの「話す」も発表がちょっと、話し合いがちょっと、という感じ。
発表も大事だけど、コミュニケーションってまさに「話し合い」の力。
国語でこそ、「コミュニケーション」の割合を増やして、自分の想いや考えを伝えられるようになるべきじゃないかしらん。
その上で、もしくは同時進行で外国語で「伝えたい!」「聞きたい!」というのを育てていけばいい。


ドイツ人(多分他の外国人も)は普通にコミュニケーションできる

私が教えてるドイツ人学生、生徒たちは、多少引っ込み思案だなと思う人、子もいないわけではないが、日本人の平均からしたら、ぐいぐいいく方だと思う。
(ドイツ平均よりは引っ込み思案率が高いと思う。
そういう子たちだから、日本に興味を持つのかも!)

補習校で教えていたとき、日本人学校の先生が見学に来ると決まって、
「挙手が多くて活発ですね!」
とびっくりしていた。
日本人家庭の子であれ、ハーフの子であれば、現地校やインター校に通っている子どもたちである。
授業は参加しないと成績にならないのだ。

日本語で「授業できく」というと、「聞く」「聴く」ということになる。
「訊く」ではない。
授業中、静か―にしていれば、「ちゃんと『聞いて』いる」ことになる。

でも、ドイツでは例えば娘たちの通うギムナジウム(小5~高校の進学一貫校)であれば、主要教科でこそ6対4(先生により5対5)くらいだが、副教科は7対3の割合で、「授業態度」が「試験」より高く評価される。
ここでは「授業態度」と訳したが、ドイツ語では"mündliche Noten" (英語では、oral、verbal)という。
Mundは口のこと、つまり直訳するなら「口頭成績」だ。

授業中での発言が多ければ、当然成績がよく、少なければ成績が悪くなる。
日本のようにテストがよければ成績がいいかというわけでなく、副教科において、試験結果は3割しか評価されないのだ。

発言は必ずしも先生に問われたことに挙手をして答えるだけではなく、「今のが分からなかったので、もう一度説明してほしい」とか「こういう意味か」「こういう場合はどうなるのか」というのでもいいらしい。
授業にきちんと参加しているからこそ、疑問が生じるというのだ。

日本の学校でならどうであろうか。
質問があったら、授業後に友達に聞いたり、先生を捕まえたりするんじゃないだろうか。

なぜか。
「恥ずかしいから」「授業の進行の邪魔になると思うから」などだろう。

なぜか。
小さいときから、「そんなことをしたら恥ずかしいよ」「あんまり目立たないように」「みんなの邪魔をしたらダメだよ」「オトナの話! 子どもは知らなくていいよ」「今忙しいからあとでね」と育てられているからではないか。
その大人自身も子どものころ、そう育てられてきた。
出る杭は打たれるってね。

「上意下達」
「意志」は伝達すものではなく、上からおりてくるもので、推し量って理解するように努めるべきもの。
自分の意見を言うなんてことはあってはならないという時代が長らく続いて、急に学校だけで「自分の意見を伝えよう」という単元を1つしたくらいで、身に付くもんじゃないんだろう。

日本のよさも同じ根っこなので、よさを捨ててコミュニケーションがとれるようになれ!というべきなのかどうか分からない。
でも、どういう人に育っていってほしいのかを、家庭が、地域が、国がしっかり考えず、「迷惑はかけるな」でも「英語で人にどんどん話しかけろ」みたいな教育がうまくいくとは思えない。
せめて方向を1つに絞ってあげたらいいのにと思う。


「コミュニケーションとは」再び

引用したアメリカ人に話しかけた日本人は、「どこから来たのか」「日本にどれぐらいいたのか」「金沢で観光旅行をしているのか」「日本食を食べられるか」というような質問をしたという。
相手が誰でも同じ質問になるようなテンプレだ。

もし、本当にその日本人がコミュニケーションをしたかったのなら、
「どこから来たんですか」
「アメリカです」
「そうですか。私はアメリカの〇〇に行ったことがありますよ!/私はアメリカに行ったことがないんですよ。」
のように、答えに対するリアクションをして、さらなる質問をし、会話を発展させればよかったんだろう。
「私は『あなた』に興味を持っていますよ、だから知りたいんですよ」とうつったことだろう。

コミュニケーションが得意じゃない人がいたっていい。
英語が得意じゃない人がいてもいい。
子ども時代は、好きなことに没頭して、その仲間とやりとり(意思伝達)できるなら、それで目標達成ってことでいいんじゃないのかなあ。
いろんな興味を持つのは子どもの自然な衝動で、それを伸ばしてあげられるといいよね。
中学生高校生くらいから、仲間以外の人にも、その面白さを伝えよう!みたいな試みができるようになったらいいけどね。
がんばれ、日本の子どもたち!


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