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【日露関係史5】日露国境の画定

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第5回目です。

前回の記事はこちらから!

安政元年(1855)に締結された日露和親条約により、日本とロシアの近代国家としての外交関係が樹立しました。しかし、同条約では国境問題が決着しておらず、これが樺太問題として浮上することになります。今回は日露間の北方国境をめぐる交渉と紛争について見ていきたいと思います。


1.日露の国境認識

最初に、当時の日本とロシアがどのように国境を認識していたのか、という話をしたいと思います。

まず、千島列島についてです。1711年以降、ロシア人は千島南下と領有化を進め、1768年には得撫島、さらに択捉島にまで到達しています。しかし、狩場を荒らされることを恐れた択捉島のアイヌたちがロシア人を襲撃する事件が起きたため、ロシア人の進出は得撫島までとなりました。一方、日本側は「アイヌは日本人の管轄であり、アイヌの居住地は日本の領土である」という領土観をもっていたため、択捉島までは日本領であるという認識を抱いていました。実際に択捉島が完全な日本領となるのは、寛政11年(1799)の蝦夷地直轄領化以降のことでした。

「大日本恵登呂府」の碑
寛政10年(1789)の蝦夷地巡察隊に参加した近藤重蔵は、択捉島に渡った際、「大日本恵登呂府」の碑を建て領有を宣言した。写真は昭和30年に再建されたもの。
CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106009706

そのため、プチャーチンと川路聖謨の日露会談以前から、千島における国境は択捉島と得撫島の間に引かれるというのが、双方の共通の認識となっていました。このことはプチャーチンも認識していましたが、後に述べる樺太の交渉を有利に進めるために、彼はあえて択捉島の分割を提案します。その狙いは、分割を提案した後にそれを放棄することで、日本側に自分たちが頑固で柔軟性を欠く交渉相手という印象を与えないする、というものでした。このため、最終的に締結された日露和親条約では、択捉島以南を日本領得撫島以北をロシア領とすることが定められました。

千島列島
日露和親条約によって択捉島・得撫島の間に国境が引かれたことは、日本が北方領土を固有の領土と主張する根拠となっている。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=105293908

次に樺太です。日本人はアイヌとの交易のため、宝暦元年(1751)以降たびたび樺太に渡っていましたが、日本の交易所や漁場が建設され、日本人が居住するようになるのは寛政2年(1790年)以降のことでした。一方、ロシア人の進出は1849年のことで、ゲンナジー・ネヴェリスコイによって間宮海峡が航行可能であることが判明した後、北部に築かれたアレクサンドロフスク・サハンリンスキーを拠点として入植が開始されました。

ゲンナジー・ネヴェリスコイ(1813‐1876)
ロシア海軍の軍人で、彼の行ったアムール川河口域調査が、ロシアの樺太および沿海州への進出・領土拡大を契機となった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=41815884

皇帝ニコライ1世の意向は樺太を北緯50度で日露が分割するというものでしたが、プチャーチンの長崎滞在中、露米会社の遠征隊が樺太に進出し、日本人の村を襲撃したうえ、樺太がロシア領であることを宣言したため、ロシア側は急きょ全島領有を主張することになりました。しかし、日本側に国書の記述と矛盾していることをつかれたため、全島領有は撤回しますが、それでも日本領を安庭湾沿岸に限定しようと交渉しました。結局、双方の折り合いはつかず、日露和親条約では樺太は「界を分たず、是迄之仕来の通りたるべし」とされ、国境は未画定のままとなりました。

樺太
ロシア語名サハリン。19世紀に入るまで、島なのか半島なのかもよくわかっておらず、文化6年(1809)の間宮林蔵による調査で島であることが確認された。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1139462

2.樺太をめぐる交渉

安政6年(1859)7月、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ日露修好通商条約締結のために来日します。幕府はこの機に樺太問題解決しようとしましたが、ムラヴィヨフは極東進出強硬派であり、ロシアの樺太全島領有を主張したため、北緯50度での分割を主張する日本側の意見と対立し、解決を見ませんでした。文久2年(1862)、日本はロシアと双方で実地検分で境界を決定する約束をしますが、国内で攘夷論が吹き荒れる中それどころではなく、樺太派遣は実現しませんでした。

ニコライ・ムラヴィヨフ・アムールスキー(1809‐1881)
37歳の若さで東シベリア総督に就任。強硬な東方進出推進派で、1858年に清国とアイグン条約を締結し、アムール川左岸併合を達成した。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5266010

日本側が約束を放棄したと捉えたロシア側は、積極的な樺太進出を進めることにしました。北部のドゥエには石炭採掘のため130名の囚人が移送され、慶応元年(1865)には100名余りの兵士クシュンナイに派遣され、イギリスの侵略を防ぐという名目で大砲2門をかまえた台場を築かれました。さらに、偶発的とはいえ、幕吏8名が1か月間ロシア側に捕囚されるという事件も起こりました。

ヨシフ・ゴシケヴィチ(1814‐1875)
ロシア帝国の初代駐日領事。幕府側と本国との取次役を担ったが、彼の時代に解決されることはなかった。
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慶応2年(1866)、幕府は箱館奉行小出大和守秀実を使節とする遣露使節団をペテルブルクへ派遣し、樺太問題に関する交渉に当たらせます。しかし、双方が妥協しなかったため、樺太を日露の共有地と認める「樺太島仮規則」を調印せざるを得ませんでした。これにより、ロシア南下はますます進展し、安庭湾のトーフツ湖畔にムラヴィヨフ歩哨が築かれ、300名のロシア兵が駐屯する樺太最大のロシア軍基地が設置されました。こうした雑居状態では現地住民同士の衝突や紛争が絶えず、暴行や殺人も珍しくない事態となりました。

3.樺太放棄論の台頭

明治元年(1868)、江戸幕府は崩壊し、明治新政府が成立しました。明治政府から樺太行政を委ねられた箱館裁判所の権判事岡本監輔は、クシュンコタンに移民200名を送り込むという積極策に出ました。ロシア側は日本の活発な動きに反発し、翌明治2年に沿海州武官知事らが率いる二中隊を南樺太に上陸させ、クシュンコタンなどの日本側の重要拠点を占領しました。さらに翌年4月には800名の囚人を送り込む植民政策を進めました。

岡本監輔
箱館裁判所権判事。1863‐65年に樺太の現地調査を実施したこともあり、樺太問題を担当することになる。
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明治政府内では、ロシアとの紛争を避けるためにいっそのこと樺太を放棄するほうがよいのではないか、という樺太放棄論が主張されるようになります。これを最初に唱えたのは、明治3年(1870)に新設された「樺太開拓使」の樺太開拓次官に就任した黒田清隆です。樺太現地を視察した黒田は「このままでは樺太は3年と持たない」と認識し、樺太を放棄する代わりに、北海道の開拓を重視するべきだと主張しました。

黒田清隆(1840‐1900)
1870年に開拓次官、74年には開拓長官となり、北海道開発に尽力した。また、西郷・大久保亡き後は薩摩藩閥のトップとなり、明治政府内で存在感を示した。
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当時の明治政府では、征韓論を巡って内部対立が生じており、強硬派である西郷隆盛は、自らを使節として朝鮮に派遣するよう主張していましたが、慎重派である大久保利通はこれに反対していました。そして、大久保が使節派遣の反対の口実としたのが、樺太問題のほうがより深刻であるというものでした。結局、西郷は政争に敗れ下野し、大久保が主導権を握ることになりますが、樺太問題を理由に征韓論を退けた以上、ロシアとの交渉を最優先に進めることになりました。

大久保利通(1830-1878)
木戸孝允、西郷隆盛に並ぶ「維新の三傑」の一人。征韓論に関しては、欧米との国力差を克服するため「内治優先」を主張して即時出兵を拒否したが、「大国主義」を捨てたわけではなく、日本が東アジアの主導権を握れる機会を狙っていた。
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4.樺太・千島交換条約の締結

西郷が下野したことで、政府内では樺太放棄論が主流となりました。次なる問題は、交渉のため誰をロシアに派遣するのかということでした。今回の交渉は平凡な人物では務まらないと考えた大久保が黒田に打診したのが、榎本武揚でした。幕末にオランダへ留学して国際法全般の知識を身に着け、英仏蘭語にも通じる榎本は、まさに大久保が求める非凡な人物だったのです。榎本は初代駐露公使及び海軍中将にも任命され、1874年3月、ロシアへと赴任しました。

榎本武揚(1836‐1908)
幕臣として最後まで新政府軍に抵抗したが、箱館にて降伏。その後は助命した黒田清隆のもとで、北海道開拓に従事していた。
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榎本はペテルブルクにて、ロシア外務省アジア局長のピョートル・ストレモーホフと交渉に入りました。榎本は太政大臣三条実美より、樺太を放棄する代わりに、代償として「ほかに釣り合うべき地」を割譲させるように指示されていましたが、榎本が要求したのは千島全島の割譲でした。ロシア側は千島は艦船の航路が設置されていることを理由に難色を示しますが、結局日本側の要求をほぼ全て認めることとなりました。こうして、1875年5月7日、「サンクト・ペテルブルク条約(通称、樺太・千島交換条約)」が調印されます。

樺太・千島交換条約の原文
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12816499

同条約により、ロシアは樺太全島を、日本は千島列島全島を領有することになりました。この領土交換に対して、ロシア外務省は樺太が「ロシアの豊かな地方の一つ」となったのだから、成功だと皇帝に上奏しています。一方、日本国内では政治・経済的に大きな価値のある樺太を、小さな千島と交換したことに対し、反発する新聞もありました。しかし、大きな反対運動が起きることはありませんでした。

5.サハリン・アイヌと千島アイヌの運命

日露両国に受け入れられた樺太と千島の交換でしたが、この条約によって最も大きな被害を受けたのが、当地に住むアイヌたちでした。樺太・千島に住む日露の両国民は、国境変更後も引き続き旧領への居住を認められました。しかし、先住民たちに関しては、3年の猶予期間のうちに日露どちらかの国籍を選択せねばならず、国籍と住んでいる領土が一致しなければ、選択した国の領土へ移住することが強制されました。

19世紀ごろのアイヌの分布
アイヌは言語に基づき、北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌに分けられる。しかし、現在は移住や同化政策によってそのほとんどが日本人の中に埋没してしまっている。
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87101552

日本国籍を選択した841人の樺太アイヌたちは、北海道へと移住させられました。彼らは故郷の対岸で漁業に従事できる宗谷で生活することを希望しましたが、北海道開拓を進める黒田長官の強い意志により、対雁村(現北海道江別市)の開墾に従事することが強制されました。一方、日本領となった千島最北端の占守島に住む千島アイヌたちは、本来であれば当地に住み続けることができましたが、物資補給にコストがかかりすぎる、ロシアの習俗を身に着けている彼らを当局の監視下に置きたいという理由から、色丹島へと移住させられました。

樺太アイヌ(左)と千島アイヌ(右)
樺太アイヌたちは、江戸時代から日本人の漁場で働いていた。一方、ロシアの支配下に置かれていた千島アイヌたちは、ロシア風の氏名を名乗り、正教に改宗するなど、ロシアの習俗を身に着けていた。

樺太・千島のアイヌたちは、強制的な移住の中で家族全員がまとまって移動できたわけではありませんでした。しかし、取り残された人々へ迎えの船が出されることも、移住者が元の居住地に渡航することも認められなかったため、そうした家族は離散したままとなってしまいました。また、移住したアイヌたちは伝統的な生活は奪われ、慣れない開墾生活や、動物性生食から米食への食生活変化による栄養不足、伝染病の流行により、その人口は半数以下にまで減少させてしまいました。

6.まとめ

幕末より続いた日露の国境交渉は、日露和親条約、そして樺太・千島交換条約によって、いったんは画定しました。皆さんご存じのように、この国境は、樺太・千島条約の30年後の日露戦争によって、さらにそこから40年後の日ソ戦争によって、さらなる変遷を遂げることになります。現在も続く領土問題の原点が、ここにあるといえます。また、日露国境の問題は、日本とロシア両国だけでなく、先住民であるアイヌたちとも深く関わっています。「文明国」の論理によって、昔から住んでいた彼らの意向は全く無視され、国境線が引かれてしまったのです。アイヌの問題の源流もまた、日露の国境問題にあるといえます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら

日露国境の歴史と北方領土問題については、こちら

明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら

ロシア帝国時代の日露交流全般については、こちら

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