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【人物史】皇帝になったKGB ウラジーミル・プーチン

こんにちは、ニコライです。今回は【人物史】になります。

2000年に大統領に就任して以降、20年以上にわたってロシアの権力の座に居座り続けているウラジーミル・プーチン。『タイムズ』や『ニューズウィーク』など主要誌で、長年「国際政治に最も大きな影響力を持つ人間」に選ばれており、先日、開戦から丸1年が経過したウクライナ戦争により、ますます世界中が注目する人物になっています。そもそも彼は一体どのようにしてロシアの最高権力者に登り詰めたのでしょうか。プーチンの内外政策については連載の方でとりあげるとして、今回はそれ以前の、生まれてから大統領となるまでの前半生について見ていきたいと思います。

ウラジーミル・プーチン(1952-)
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1.「通り」のボロージャ

私は子供の頃不良だったのです……ほとんどの時間を外で遊んですごしていました……私は「通り」で育ったと言ってもいいでしょう。

『プーチンと柔道の心』55頁

ウラジーミル・プーチンは、1952年にソ連第二の都市であるレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)に生まれました。父ウラジーミルは典型的な工場労働者にして共産党員、母マリアは清掃員、パン屋の配達、夜警などの仕事を転々とする雑役婦でした。プーチン一家が暮らしていたのはコムナルカという共同住宅で、トイレと台所は共用で浴室はなく、三人は一部屋にそれぞれのスペースを作って生活していました。

プーチンの両親
左が父ウラジーミル、右が母マリア。第二次大戦中、ウラジーミルは諜報機関であるNKVDで働いており、このことはプーチンがKGBを志す理由のひとつになったと思われる。
By Original: Vladimir PutinThis version: Рядовой википидист - File:Putin's parents.jpg, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=108740357

不良少年で素行が悪かったプーチン少年は、狭い自宅ではなく街頭、すなわち「通り」で過ごすことが多くなりました。しかし、「通り」は何か揉め事があると喧嘩の強さがものをいう場所であり、強いものが正しい、強い人が頼られるという弱肉強食の世界でした。小柄でひ弱だったプーチン少年は喧嘩でボコボコにやられてしまい、肩身の狭い思いをしていました。

少年時代のプーチン
不良で素行が悪く、通常であれば3年生で入団するピオネール(ソ連版ボーイスカウト)にも、6年生になるまで入ることができなかった。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4970092

「通り」で生き残るため、なんとか強くなろうとしたプーチン少年は格闘技を習い始めました。最初はボクシング、次にサンボ、そして最後に柔道へとたどり着きました。彼の柔道コーチだったアナトリー・ラフリンは、プーチンの勝とうとする意志は人並外れて強かった、と述べています。「通り」で育ったプーチン少年は、「人は強くあれらねばらなない」という教訓を学んだのです。

2.KGBを志す

だが、その後、『剣と盾』のようなスパイ映画や小説に、私の心はがっちりとつかまれてしまったのだ……私は進むべき道を決めた。スパイになろうと

『プーチン、自らを語る』37頁より

「強さ」への強い執着を抱いたプーチン少年は、自らの身体を鍛えるだけではなく、強大な組織に身を置くことで自身をより強くすることができると考えるようになります。しかし、不良少年だった彼は、ソ連NO.1の組織である共産党のエリートへの道を歩みことが困難になっていたため、必然的に、NO.2の組織であるKGB――ソ連国家保安委員会への所属を希望するようになります。

KGBはロシア革命を防衛するために組織された「チェーカー(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)」の後継組織であり、ソ連の保安と諜報を司る政治警察です。16歳になったプーチン少年は、KGBレニングラード支部を訪れ、対応した職員に働きたいという希望を伝えました。その職員からの返答は、志願者は採用していない、そして軍の出身者か大卒でなければ採用されないというもので、プーチンはひとまず大学進学を目指すことになります。

ボリショイ・ドーム
旧KGBレニングラード支部。現在でも後継機関であるFSB(連邦保安庁)の支部となっている。
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専門学校に通うことを期待していた両親は、大学進学の話を聞くと猛反対したそうです。しかし、プーチンはそれも押し切り、倍率40倍の超難関であるレニングラード大学法学部に入学しました。そして、1975年の卒業と同時にKGBに採用され、レニングラード支部にて働き始めます。最初は事務局に勤めていましたが、外国での諜報活動を希望していたプーチンは、モスクワの赤旗諜報研究所で1年間研修を受けた後、対諜報活動部へと転属しました。

KGB時代のプーチン
一介の大卒者がいきなり諜報機関の正規職員となるのは考えにくことから、プーチンは在学中にすでに「見習い」として働き始めていたのではないかと思われる。学生時代に、ソ連人にとって高級品であった自動車を所有していたことも、かなり金回りがよかったことを示している。
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3.東独での任務

西ドイツに赴任するためには、KGB本部のしかるべき部署に勤める必要があった……第二の道はただちに東ドイツへ行くことだった。そして、私はすぐに赴任する道を選んだのだ。

『プーチン、自らを語る』75-76頁

プーチンは勤務開始から10年後の1985年、東ドイツドレスデンへと派遣されました。表向きは「ソ独友好協会」の副会長を務める一方で、KGBの在独ドレスデン支部に勤務するようになります。

1980年代のドレスデン
ドレスデンは、かつては「北のフィレンツェ」と呼ばれたザクセン王国の首都であり、東独時代は同国で三番目に大きい都市であった。
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プーチンは在外勤務先でいったいどのような任務に携わっていたのか。残念ながら、これについてもハッキリとしたことはわかっていません。一説では、同盟国である社会主義圏に派遣されたことから、プーチンは三流のエージェントであり、大した任務には携わっていなかったと言われています。また別の説では、西側の技術的な機密を盗み出す「ルーチ作戦」に従事していたとも、東独の政府高官をエージェントとしてリクルートしていたとも、またドレスデンを訪れた西側の極左暴力集団と接触していたとも言われています。

東独時代のプーチンの身分証
2018年に発見された、シュタージ(東独国家保安省)の職員としての身分証。同省の施設に出入りするために発行されたと考えられ、プーチンがシュタージと共同活動をしていたことが伺われる。

さて、プーチンが国外で活動していたちょうどその頃、本国ソ連ではミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカが進行していました。彼の改革と新思考外交は東欧社会主義圏の反体制運動を大きく刺激し、東独でも群衆がシュタージの建物を破壊して回るという事態が発生しました。ドレスデンのKGB支部も取り囲まれ、プーチンは駐留ソ連軍に救援を要請しましたが、「モスクワからの命令がない限りなにもできない」と返答されただけでした。この際、プーチンはソ連が長くないことを悟ったそうです。

そうこうしているうちに、1989年にはベルリンの壁が崩壊して東西ドイツは統一し、翌年早々にプーチンは這う這うの体でソ連へと帰国しました。彼は遂にペレストロイカ期における自由化の雰囲気を直接味わうことはなく、むしろ、その影響で東欧社会主義圏が崩壊していくという負の側面を目の当たりにしました。プーチンの保守主義的な思想の形成には、こうした急進的な改革に対する負のイメージが影響していると考えられます。

4.市役所への転職

ヴォロージャは市長のもとで働くようになって、ずいぶん変わった……彼は全霊をかけてサンクト・ペテルブルクの問題に取り組んでいたので、感情が奪い取られてしまっていた。

『プーチン、自らを語る』127頁

帰国したプーチンはKGBに辞表を提出し、91年の8月クーデターをきっかけに正式にKGBを辞職します。その後、彼はレニングラード市のソヴィエト議長アナトリー・サプチャクのもとで働くようになります。サプチャクはレニングラード大学法学部の教授で、ソ連末期には政治家へと転身し、民主改革派として頭角を現していました。91年に行われた史上初の民主的な選挙により、サプチャクは市長に選出され、プーチンは副市長ならびに対外関係委員長に就任します。

アナトリー・サプチャク(1937-2000)
学生時代のプーチンはサプチャクから講義を受けたこともあった。なお、サプチャクはプーチンが大統領になる少し前に不審死を遂げており、最高権力者となる前に目障りになりそうな人間を始末したのではないか、とも言われている。
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副市長としてのプーチンの仕事はビジネス活動、外国投資の呼び込み、外国企業との合弁会社の立ち上げなど、経済の新しい分野についてでした。彼の努力により、コカ・コーラやジレットなどの世界的な有力企業がペテルブルグへと進出してきました。また、プーチンは地味なルーチンワークが苦手なサプチャクを陰で支える役割を果たし、彼から絶大な信頼を寄せられるようになっていきました。

ほとんど順風満帆だったプーチンの市役所勤めでしたが、わずか5年で終わりを迎えることになります。サプチャクのエリート主義的な態度は多くの政敵を生んでしまい、市の有権者たちの間でも人気を失っていきました。そのため、96年に行われた市長選で、彼は自身の部下であったウラジーミル・ヤコブレフに破れてしまったのです。サプチャクの選挙対策本部長を務めたプーチンは、彼の落選と同時に市役所を去っていきました。

5.モスクワでの急上昇

「不思議だわ、昨日まで無名のサンクト・ペテルブルク副市長の男性と結婚していたのに、今は首相なんだから」

『プーチン、自らを語る』176頁

市役所を辞めたプーチンは数か月の間無職でしたが、1996年8月にはモスクワの大統領府で働くようになります。プーチンをモスクワへと引っ張っていったのは、彼と共にペテルブルグ市副市長を務め、一足先にモスクワへと移っていたアレクセイ・クドリンです。彼の斡旋によって、プーチンは総務局次長の職を得ることができました。

アレクセイ・クドリン(1960-)
レニングラード大学経済学部出身で、プーチン政権下では財務大臣や副首相を務めた。クドリンのように、ペテルブルグ市役所時代にプーチンと親しい関係になった法律家やエコノミストのことは、「シビリキ(市民派)」と呼ばれる。
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その後のプーチンは出世街道を邁進していきます。97年には大統領府副長官へと昇進し、その翌年にはKGBの後継組織のひとつである連邦保安局(FSB)長官、そして99年8月には首相に就任します。88歳になっていたプーチンの父は、多くの従者を引き連れた彼を見て「息子は皇帝のようだ」といったそうです。

なぜプーチンはわずか3年の間に、新天地モスクワでここまで出世を遂げることができたのか。これに関しても詳しい実情はわかっていません。当時、病弱になったエリツィン大統領の候補者探しをしていた彼の側近たちにとって、野心を示さず、自ら出しゃばるタイプではなかったプーチンは、都合よくコントロールできるコマに見えたのかもしれません。あるいは、KGBの後継組織であるFSBやSVR(対外諜報庁)が、同じくKGB出身であるプーチンに白羽の矢を立てた、という説もあります。

タチヤナ・ジヤチェンコ(1960-)
エリツィンの次女で、「ファミリー」(エリツィンの側近集団)の中核的人物。プーチンの出世には、彼女をはじめとする「ファミリー」の意向が大きく関係していたと思われる。
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6.大統領選挙

私はまだ準備ができていませんし、自分が大統領になりたいのかもわかりません。何しろ、それは困難な運命なのですから

『プーチン、自らを語る』250頁

プーチンの出世はとどまることを知らず、1999年12月には、辞任を表明したエリツィンの後継者として大統領代行に任命されます。そして翌年3月の大統領選挙に臨むことになります。

エリツィンとプーチン
エリツィンと彼の「ファミリー」は、プーチンが忠誠心に篤い人物と見込んで、彼を重用したと言われている。
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エリツィンの側近だったオリガルヒ(新興寡占財閥)たちは、プーチンを大統領にするべく、総力を挙げて彼を支援しました。この際、特にキングメーカーとしての役割を演じたのが、ボリス・ベレゾフスキーです。ベレゾフスキーは自身の支配下にある「ロシア公式テレビ(ORT)」、『独立新聞』、『コメルサント』などのテレビ、新聞、雑誌を駆使して選挙キャンペーンを展開しました。さらに、著名なロシア人ジャーナリストを動員し、プーチン唯一の公式自伝となる『第一人者より』(邦題『プーチン、自らを語る』)も作成しました。

2000年3月26日、プーチンは大統領に当選し、5月7日にクレムリン入りを果たしました。しかし、プーチンは大人しく誰かのコマとしての立場に甘んじるような人物ではありませんでした。ベレゾフスキーは早くも同年12月には国外追放処分となり、その後もエリツィン時代の有力者は次々と排除されていきます。自らの権力基盤を築き上げたプーチンは、以後20年以上にわたり、クレムリンの主として君臨するようになります。

就任式に臨むプーチン
プーチンは就任式の際、左手ばかり動かして、右手を全く動かさない奇妙な行進をしていた。腕時計をはめるのも右腕であることなどから、プーチンは右手になんらかの障害があるのではないかと考えられている。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5112698

7.まとめ

以上が、プーチンが大統領に就任するまでの前半生になります。プーチンの人生については不明瞭なことが非常に多く、これも彼がKGBという諜報機関の一員であったことが大きく関係しています。

歴史にIFはありませんが、プーチンの人生が少しでも違っていたら、彼は大統領になっていなかったかもしれません。もし彼が柔道と出会わず、いじめられっ子のままだったら、もしKGBに入局することができなかったら、もし96年の市長選でサプチャクが勝利していたら、もし市役所を辞めてからモスクワへと引き抜く人がいなかったら……プーチンが一介のペテルブルグ市民として人生を送っていた可能性も十分ありえたのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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