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ウクライナの歴史3 ロシア帝国による支配

1.はじめに~ウクライナにおけるロシア語~

ウクライナはウクライナ語を公用語としていますが、国民の30パーセント近くがロシア語話者であり、東部から南部にかけてはその比率は高くなっています。特に、ロシアが「独立承認」をした2つの人民共和国が位置するドネツク州ルハンスク州、ロシアによって一方的に併合されたクリミア自治共和国、セヴァストポリ市では、住民の半数以上がロシア語話者となっています。一方、西部ではロシア語話者の割合は少ない傾向にあります。

ロシア語話者の比率(2001年の国勢調査による)。色が濃いほど比率が高い。
By Tovel, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23203248

こうした言語分布の傾向はどのようにして生まれたのでしょうか。それは18世紀以降、ウクライナがロシア帝国によって支配されたことが、大きく影響しています。

2.ポーランド分割

1667年のアンドルソヴォ条約によって、ドニプロ川を挟み、左岸ウクライナをロシアが、右岸ウクライナをポーランドがそれぞれ分割しました。右岸ウクライナでは、18世紀になるとポーランド貴族が戻り、再び大土地所有を始めました。

ポーランドでは「貴族の共和制」といわれるほど貴族の力が強く、全会一致の貴族たちの議会を通さなければ、王は一切の国事を行うことができませんでした。そのため、近隣諸国が中央集権化を進め絶対王政を築いていた時期に、ポーランドは強力な国家体制を作りえないでいました

こうして、ポーランドは外国からの干渉を受けるようになり、1772年、1793年、1795年の3次にわたる「ポーランド分割」を経て、ロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって分割され、消滅しました。ロシアはウクライナの右岸地方、ヴォルイニなどウクライナの大部分を、オーストリアはハリチナー、ブコヴィナなど西ウクライナの一部を獲得しました。

3度にわたるポーランド分割の結果。
緑系はロシア、黄系はオーストリア、青系はプロイセンが獲得した領土を示す

By Rzeczpospolita_Rozbiory_3.png, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6098211

3.ノヴォロシア県の創設

黒海進出を狙っていたロシアは、黒海の制海権を握るオスマン帝国と数次にわたる「露土戦争」を行いました。1769年、第一次露土戦争に勝利したロシアは、クチュク・カイナルジ条約が結び、黒海北部沿岸を獲得しました。

クリミア半島を含む黒海北岸に位置していたクリミア・ハン国は、同条約で独立国とされ、それまで宗主国であったオスマン帝国の後ろ盾を失いました。1783年、皇帝エカチェリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンによって首都バフチサライを攻略され滅亡、ロシアへ併合されました。

エカチェリーナ2世(1729-1796)
グリゴリー・ポチョムキン(1739-1791)


1775年、エカチェリーナ2世は新たに獲得した領土を一括して「ノヴォロシア県」を創設し、ポチョムキンを総督に任命しました。ポチョムキンは、入植者に広大な土地を与え、最初の20~30年は無税にするという大胆な植民政策を実施しました。ロシア人貴族に引き連れられ、右岸ウクライナの農民たちが入植し、ノヴォロシアの人口は、1782年には53万人、1784年には70万人、1793年には82万にまで増加しました

ポチョムキンは、黒海沿岸部にオデッサヘルソンミコラーイフなどの港湾都市を次々と建造していきました。これらの都市は穀物貿易の輸出港として急速に発展していきます。クリミアには、黒海艦隊の基地としてセヴァストポリが創設されました。

黄色がノヴォロシア県、オレンジ色がクリミア
By Dim Grits, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15945964

4.ウクライナの工業化

1721年、ドネツ川で石炭が発見され、その後イギリスから蒸気機関が導入されると、ロシア帝国のバルチック艦隊・黒海艦隊への石炭供給地として開発が始まりました。また、1795年に、エカチェリーナ2世は、ルハン川周辺開発の勅命を発し、1799年、工場建設が完了して製鉄が始まりました。

19世紀後半になると、ロシアにおいても工業化が本格的に推進されるようになります。ウクライナ南東部のドンバス(ドネツ炭田(Donets'kyi basein)の略)地方では大炭田が発見され、石炭採掘産業が急成長していき、ロシア全体の石炭生産量のうち、43パーセントをドンバス地方が占めるようになりました。また、1880年代には製鉄業ブームが起き、クリヴィーリフの鉱山で採掘される鉄鉱石を使用し、ドニプロ・ドンバス地域に一大製鉄工業地帯が形成されました。

「石炭を拾い集める貧民」ニコライ・カサートキン,1894年

こうした重工業における工業労働者として、ロシア本国から多くのロシア人たちが入植してきました。1897年にはウクライナのロシア人人口は300万人、比率で見ると12パーセントを占めるようになりました。特に、ミコラーイフ、ハルキフ、キエフ、オデッサ、カテリノスラフなど各都市においては、人口の半分をロシア人が占めるようになりました。

5.ウクライナ人のロシア化とウクライナ語弾圧

ロシア帝国では、ウクライナという呼称は廃止され、「小ロシア」と呼ばれるようになりました。

コサックの将校たちは貴族として認定されました。彼らはロシア貴族と同様に免税特権と農奴を持つ権利が認められ、ロシア帝国のシステム内に同化していき、やがて地方官僚層を形成しました。中には中央で大臣を務めたものも出てきました。

ウクライナの都市においては、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人が大半を占めており、少数派であるウクライナ人はロシア語を話すようになり、ロシア化していきました。一方、農民たちは、1783年に移動の自由が禁止され、完全に農奴化しました。農民たちはウクライナ語を話し、ウクライナの風習を守っていました。このため、ロシア帝国におけるウクライナ語話者の9割は農民でした。

ロシア帝国では、ウクライナ語はロシア語の方言に過ぎないと考えられていました。また、1720年からたびたびウクライナ語禁止令が発令されました。
特に、ウクライナ人の民族運動が活発化した19世紀後半以降は弾圧が強まりました。1863年、ウクライナ語出版物とウクライナ語教育に対する禁止令が出されました。1876年には「エムス法」が発布され、教育、出版、講演などにおけるウクライナ語使用の全面的な禁止と、ウクライナ関係団体の閉鎖、ウクライナ運動活動家の追放など、徹底的な弾圧が行われるようになりました。その結果、ウクライナ語の地位は極度に低下し、ウクライナ語話者は下層階級、またはロシアへの反抗者とみなされるようになります

6.まとめ

ロシア人の入植は、ロシア帝国が崩壊し、ソ連が成立した以降も続きました。また、ウクライナ語の使用禁止政策はソ連時代も度々実施されました。ウクライナ語の本格的な復権は、ソ連から独立する直前の1989年に、ウクライナ最高会議がウクライナ語を国家語であると宣言されるまでかかりました。

独立後のウクライナでは、ロシア語話者が多いドンバス地域を中心に、ロシア語の公用語化運動が起こりました。ドンバス地方を地盤とする政党は、すべてロシア語公用語化を掲げていたほどでした。しかし、2014年のクリミア併合・ドンバス紛争以降、ロシア語、ロシア文化などロシア性が公的空間から排除され、ウクライナ化にとって代われています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)

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