【都市の歴史】ルーシの古都・キーウ
こんにちは、ニコライです。今回は単発記事【都市の歴史】です。その名の通り、ひとつの都市を単位として歴史をまとめてみようという趣旨です。
今回とりあげるのは、ウクライナの首都キーウです。キーウは1500年以上の歴史を持つ都市であり、ウクライナだけでなく、ロシア、そしてベラルーシの東スラヴ諸国の歴史とも深く関係しています。今回はキーウの建都から現代にいたる通史を見ていきたいと思います。
1.キーウの建都
伝説によれば、現在のキーウ周辺に集落が作られたのは今から1500年前のことだとされています。この地に住み始めたのは、東スラヴ人の中でもポリャーネと呼ばれる氏族でした。その族長の名はキーといい、彼にはシチェク、ホリフの2人の弟と妹ルイベジがおり、兄弟は町を築き、長兄キーの名にちなんでキーウと名付けたと言います。これがキーウの始まりとされています。
ポリャーネ氏族を含む南ルーシの諸族は、ヴォルガ川下流から北カフカスにかけて大国を築いたハザール・ハン国の支配下に入り、キーウもハザールに貢納を納めるようになりました。一方、北ルーシの諸族は、ヴァリャーグ(ヴァイキング)のリューリクを招き、彼を公として国家を築いていました。
862年、ヴァリャーグの貴族アスコルドとディルの兄弟は、ツァリグラード(コンスタンティノープル)を目指してドニプロ川を下り、その途中でキーウを発見し、この町とポリャーネ氏族を支配するようになります。882年、2人はリューリクの跡を継いで公となったオレフによって謀殺されてしまい、オレフはキーウを征服して新しい都に定めました。
2.大公国時代
キーウ公たちは周辺諸族を平定して統一国家を築きました。キーウ大公国時代の幕開けです。
キーウは、バルト海とコンスタンティノープルを結ぶ「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれる交易ルート上に位置しており、中継貿易地として大いに栄えました。最盛期の人口は3万~5万人と推定され、当時のヨーロッパの中ではロンドンと並ぶ規模の都市でした。
988年、大公ヴラジーミル1世がキリスト教を受容すると、それまでの異教の神々の像が破壊され、教会や修道院が建てられるようになりました。大公の宮殿を囲うように、キーウ最初の教会デシャチンナヤ聖堂、キエフ府主教座の置かれた聖ソフィア大聖堂、黄金ドームで有名なミハイル大聖堂の3つの教会が造営され、キーウの富と権力の象徴となりました。
11世紀中ごろには、キーウ近郊の洞窟でアントニーという修道士が修行をはじめ、そこに求道士たちが集まり修道院へと発展していきました。この洞窟(ペチェルスカヤ)大修道院は、現在でもウクライナで最も権威のある修道院であり、13世紀以前のキーウの高位聖職者たちはこの修道院出身者だけに限られていました。
これ以外にも数多くの教会が建てられ、大公国時代には400以上もの教会が立ち並んでいたと言われています。
3.キーウの衰退
大公国の首都として発展したキーウでしたが、12世紀以降、徐々に衰退していきます。キーウ大公は自身の息子たちを各地方の公として配置する統治体制をとっていましたが、公位継承に父子相続が定着するようになると、諸公はキーウから分離・独立した状態となっていったのです。これに合わせてキーウの地位も低下して諸公から攻撃され、略奪・破壊を受けるようになり、大公も権威を失ってしまいました。
13世紀になると、ユーラシア大陸の遥か東からモンゴル軍がルーシの地に到達します。ルーシの有力諸都市は次々と攻略されていき、1240年にはキーウが4週間以上に渡る包囲戦の末、12月6日に陥落されます。モンゴル軍による破壊と略奪によりキーウは廃墟と化しました。数年後に訪れたローマ教皇の使節プラノ・カルピニは、人口稠密だったはずのキーウには現在ではせいぜい200世帯しか残っていないと報告しています。
しかし、モンゴル人によるキーウ支配は長く続きませんでした。14世紀になると、バルト地域で統一国家を築いリトアニアがルーシの地に進出し、アルギルダス公の時代にはキーウも併合されたのです。リトアニア時代のキーウは人口は3000~4000人程度でしたが、マグデブルグ法を獲得して自治権を有しており、市民たちは自由な投票によって市長を選ぶことができました。
4.コサックによる復興
1569年のルブリンの合同によってポーランドとリトアニアの国家連合が成立すると、キーウを含む現在のウクライナ一帯は、ポーランドの支配下へと移管されました。キーウはポーランド・リトアニアの辺境に位置していたことから、クリミア・タタールによる攻撃を繰り返し受けていました。その回数は1450年から1586年にかけての130年間で、実に86回にも上ります。その結果、キーウとその周辺は荒野と化していき、「未開の広野」と呼ばれるようになりました。
こうして荒野の一寒村にまで落ちぶれたキーウを再興することになるのが、コサックたちです。17世紀初頭にコサックの統領(ヘトマン)となったペトロ・サハイダーチヌイは、キーウの市民、聖職者、貴族たちによって結成されたキーウ兄弟団の一員となり、荒れ果てていたキーウの教会を再建し、ウクライナ語の出版所を開設しました。
1634年には、ペチェルスカヤ修道院の院長であったペトロ・モヒラによってキーウ神学校が設立さると、コサックたちはこぞって子弟を学生として送り込みました。この神学校は、後にキーウ・モヒラ・アカデミーへと発展してウクライナ人のエリート層を数多く輩出しました。キーウはわずかな間に、東欧の一大文化センターへと復興されたのです。
5.ロシア帝国の支配
1667年、ロシアとポーランドが結んだアンドルソヴォ講和条約によってウクライナが両国に分割されると、キーウはを左岸ウクライナとともにロシアの領域へと編入されました。ロシアの統治下ではキーウに対する統制も強まっていき、マグデブルグ法で定められた自治権は様々な制約を受けるようになりました。1782年、ウクライナがロシアの直轄領となると、キーウとのその周辺はキエフ県となり、1834年には自治制度は完全に廃止されました。
19世紀にウクライナ人ナショナリズムが高揚すると、キーウではキリル・メトディ―団やキーウ・フロマーダなどの民族主義団体が相次いで誕生しました。これに対し、ロシア政府は団体の解散、メンバーの逮捕などの徹底的な弾圧で応じ、1876年にはウクライナ語の使用・出版・教育を禁じるエムス法を施行しました。このため、キーウにおけるウクライナ民族運動は低調化していきます。
帝政期には、ウクライナへのロシア人の入植が進められました。特に19世紀後半になると工業化にともない流入量が増加し、キーウでは都市人口の過半数以上がロシア人となりました。また、先ほど触れた通り、エムス法によってウクライナ語使用が禁止されていたことから、都市ではロシア語が主流な言語として話されており、ウクライナ語話者にとって異質な空間となっていきました。
6.近現代のキーウ
1917年のロシア革命によって帝政が崩壊すると、民族主義諸政党によって発足されたウクライナ中央ラーダと、ボリシェヴィキによって成立されたウクライナ・ソヴィエト共和国との内戦が勃発し、キーウは両者によって占領・再占領を繰り返されます。最終的にソヴィエト共和国が内戦に勝利し、1922年にはウクライナはソヴィエト連邦に加盟しました。当初、民族主義の余熱を恐れて首都はハルキウに置かれますが、1934年にキーウが再び首都となりました。
1941年に独ソ戦が勃発すると、主戦場となったウクライナは大きな被害を受けました。退却する側はいずれも焦土作戦を展開したことから、キーウの中心部の85パーセントが破壊されました。また、ドイツ軍占領期には、キーウ近郊のバービィ・ヤールで市内に住む3万人以上のユダヤ人が虐殺されました。
1980年代後半になると、ゴルバチョフによるペレストロイカにともない、独立を求める政治運動へと発展し、1989年には、「ペレストロイカのためのウクライナ人民運動」(ルーフ)の創立大会がキーウで開かれます。ルーフは30万人以上の市民からの支持を受け、キーウからリヴィウをつなぐ「人間の鎖」を形成するなど、ウクライナの独立運動をリードしました。
1991年にウクライナが独立を達成すると、キーウの中心に位置する十月革命広場は、独立(マイダン)広場へと改名されます。独立広場周辺は市内随一の繁華街であり、オレンジ革命やユーロマイダン革命などの歴史的事件の現場になりました。また、ソ連時代に宗教弾圧の一環として破壊されたミハイル聖堂も、新生国家の威信をかけて1998年に再建されました。キーウはロシア(ソ連)の一地方都市から、ウクライナの中心地へと返り咲いたのです。
7.まとめ
2022年2月24日に始まったウクライナ侵攻に際して、ロシア軍はキーウを短期間のうちに攻略し、ウクライナに降伏を迫る「斬首作戦」を展開しました。ウクライナ側の抵抗によってこの作戦は失敗し、ロシア軍は撤退を余儀なくされましたが、2023年1月現在でもキーウに対する散発的なミサイル攻撃が続いています。
モンゴル侵攻、そして独ソ戦と、歴史上2度も大きな破壊を受けたキーウに三四半世紀ぶりに破壊の危機をもたらしたのが、ウクライナ人と同じくらいキーウと深いかかわりを持つロシア人であるというのは、なんとも皮肉なことです。一刻も早く停戦とロシア軍の撤退が実現し、キーウに再び平和が戻ることを願うばかりです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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ウクライナの歴史については、下記のマガジンでまとめています。興味がある方はぜひお読みください。
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