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四年ぶりの実家。やっぱり会うと違う母。

旅行記はまだまだ続く。まだまだ書ける。

金沢から実家に帰った。2019年の夏、コロナ禍でロックダウンになる直前にムスコを連れて、彼の高校卒業旅行として東京には寄らず、地元近辺だけで過ごして以来。

あれこれ母の文句を書いてきたけれど、私と母は決して仲は悪くない。思春期に母に向かって毎日いろんなことを話していた私は、今のムスメによく似ている。そして、私の独り立ちにうまく母が対応できなかったのが、軋みが生じた理由だと思うから、ムスメに対しては意識的に気をつけている。

子供の成長のどこからが本人の力によるものなのか、の見極めがポイント。
親の私が基礎を作ってあげたけれど、そこから先は本人次第。

駅に着く。帰省すると必ず会う小学6年生以来の友人が、車で迎えにきてくれた。助手席に乗り込み、私はいつもの調子でわーわーと話し始める。

「どっか喫茶店行こう。どこがいいかなぁ」と彼女は考えている。

ところが。
「あのさ、考えてたとこ、どこも結構狭くて静かなんだよね….」
「あはははは。私、声が大きすぎるんでしょ」
「うち、でもいい?」
「もちろん!」

声が大きすぎて、喫茶店に連れていけない友人、な私。笑。

以前、建築事務所で設計していた彼女は、文系仲間の中で唯一の理系でちょっと雰囲気が違う。こういうことを、まるで私自身が嫌味に感じることなしにさらっと言えるところがとてもいい、と思う。

彼女のマンションに着いて、ガレージの前で二人で写真を撮り、東京にいる共通の友人に送る。
- あれ?マンションに行ったの?
- うん。声が大きすぎるから喫茶店連れていけないって言われた。笑。

大笑いの絵文字が返ってくる。

いいんだよなぁ、こういう関係って。

15時頃着いてから、ずーっとおしゃべりして、夕食に間に合うように実家に送ってもらったのが18時ごろのこと。彼女とはまた日を変えて会う約束をしてある。


82歳の母は、私がコロナ禍をきっかけに髪をグレイヘアのまま伸ばしたように、染めるのをやめていた。

玄関のドアを開けた時、母の白髪がまっすぐに視界に入ってきて、すーっと気が抜けたのを憶えている。不思議なもんだ。私と母の間にあった軋みは「髪の色」が原因だったわけじゃないのに。

でも。振り返ってみると、私が何よりもうざいと感じたのは、私の「出で立ち」への母からの文句と批判だった。あの二人の子育て真っ只中の私が「オシャレ」に興味があったはずがない。そんなことはどうでもよかったし、そんなことを楽しむ余裕もなかった。まして、日本語話さない Ex. と日本語話さない二人の子供を連れて、英語話さない両親のいる実家に帰省しているときに。

「日本のお母さんは、子育て中でもちゃんとした格好をしてるの!」

私は、自分のことを日本のお母さんだなんて思ったことはないし、日本のお母さんみたいになりたいと思ったこともない。

TPOはあると思うが、ただただ「人目を気にする」ことに対して
私は、反発し抵抗する。

88歳の父は、コロナ禍と猛暑のせいで外出することが少なくなり、一気に老化が進んだと母が言っていたが、確かに畳に座って立ち上がるときにちょとよろよろしていたし、耳が遠いのもあって忘れっぽくなっていたけど、ボケてるのとはちょっと違うと思う。

でも。右膝に関節炎のある私だって、床に座ってるときはよいしょっと無言の掛け声で立ち上がる。

畳は正直言って辛かった。

母は、父の「ボケ具合」とか「身体の弱り具合」とか「言っても聞かないし無視する」とか、私に愚痴った。愚痴るっていうよりも、正確には私に客観的に観察してもらいたい、という意図で。考えてみれば、そんなことを言える頼める相手は娘の私くらいしかいないわけだ。

さて。
東京と金沢の後だったから私には土産話がたくさんあって、そして金沢よりももうちょっと地方な地元で、私は相変わらず笑いっぱなしだった。

父も母も、私が笑い転げている理由がわからないものの、私があんまり楽しそうだから呆れながらもつられて笑っている。刺激のない二人の生活に、台風のような娘が現れて、彼らの生活が晴れの日の暴風雨にさらされている感じ。

私は発泡酒が好きだ。スーパーでわーわー言いながら選んだ2本。
こういうのを見ても笑ってしまう。キャンプ用具のディスプレイなのだけど、
こういう椅子に人がまるで休憩場のように座っていた。
蕎麦屋で。コレにも笑った。

日本はとにかく「教育」っていうか「皆さん、学びましょう」っていうムードがあちこちにある。蕎麦屋で、こんな教科書みたいなチラシがメニューと一緒にあるなんて、アメリカじゃ考えられないですってば。このひげにんにく食べないとだめじゃん?みたいに思ってしまう。

天ぷらは食べなかったけれど、ひげにんにくのパウダーが胡椒みたいな瓶に入っていて、それをめんつゆに振り入れてみた。美味しい。
試食できるというのがまず素晴らしく、もちろんお勘定のとこで買うことができるのよ!笑。

マンハッタンにも美味しいと思える蕎麦屋があってよく行くけれど、やっぱり蕎麦はこの店でしか食べちゃいけないって思った。コシとツルツル感が只者じゃない。

そして。ラーメン!!

豚骨じゃないラーメン!麺が細いラーメン!

実家の近くにある。年配の夫婦が二人でやっている店。両親がココのラーメンしか食べないというラーメン屋。4年前にムスコと二人で帰省した時も食べたラーメン。両親はここの常連だし、どうも背の高いハーフのムスコを連れてきた私、のこともおカミさんは憶えている様子。

残念ながら餃子はない。ラーメンもこのラーメンと、チャーシューメンと、もう一つあったかな。それに小さなチャーシュー丼みたいなのをつけられる。

アメリカ人はラーメンが異常に好きだから、マンハッタンにもうちの近所にもラーメン屋は相当数あるのだが、ギトギトの豚骨スープばかりで、さらっと鶏ガラスープ系ラーメンを探すのは難しい。ようやく見つけたとしても、それが「美味しい」かというのはまた別の問題である。なんか違う。

店内には3人くらい座れるカウンターの他、窓に向かった4人がけの席と、6人がけのテーブルが2つ。6人がけのテーブルに3人で座る。そのうちどんどんお店は混んできて、ちょっと気が引けたのだけど「相席はしないのよ」と母。よくわからない。

ラーメンが来て、私は愉悦私悦快楽享楽の極みに突入した。

これが、ラーメン!これが、正しいラーメン!これが、私の好きな、ラーメン!

ラーメンといえども、「優雅」をキーワードにじっくりと味わう。
まずそのままで食べてから、胡椒をかけろ、と母に言われる。そうなんだよ、この胡椒!GABAN ! この胡椒欲しい。絶対に買って帰るぅぅ。

食べ終わって、お勘定。私が払うって言うのに、母は財布を取り出す。
店を出る前に、おカミさんにまっすぐに向き合い、直角に身体を折り深く頭をさげて、

「ラーメンというのは、こういうものでなければなりません。まさにこれがラーメンです。素晴らしいです。また春に来ます」

と挨拶すると、オヤジがキッチンから、店中の客が振り返って私を見て、笑っていたらしい。あとで、母が笑いながら父に話していた。


母とのこと。

母とうまくいくかわからなかったから、今回は五泊のみ。結論からいうと、ちょっと物足りないくらいで、ちょうどよかった。

わかったのは、あの年代はどんなに携帯を使っていても、テキストやチャットでうまくその気持ちや思いを伝えることができてない、ということ。それなのに、母はビデオチャットを嫌がり(老いた顔を見られるのが嫌らしい。呆。それと、画面の中で視線の焦点が定まらないとか)私はほとんど日本に帰らなかったから、しこりは大きくなるばかりだった。

二人で向かい合って座って話す、みたいなことはしなかったけれど、なんとなく本音を言える瞬間があって、お互いにそれを感じて、思いを言葉にして。それで、するっと解決した。

老いた親との間に、しこりなんて、あっちゃいけない。

「今度は、もっと長くいてよ」
「長くってどのくらい?」
「二週間」
どうかなぁ。二週間はちょっとキツい気がするから、次回は10泊くらいにしておこう。笑。

まぁキツくなったら、どこかに一泊か二泊で「出張(”息抜き”)」すればいいんだけど。

ラーメンのあと、私がユニクロを見ている間に母は食料品の買い物にいき、三人で近くの和風喫茶店にて合流して、わらび餅を食べた。

父が車をもってくるからここで待ってろと言い、母が歩き去る父の後ろ姿を見ながら「ほら、よたよた、でしょ」などという。

「そんな。本人だって自覚してるんだろうから、傷口に塩塗るようなこと言わないの」
「違うよ、本人は颯爽と歩いてるつもりなのよ」
「…….」
「だから、傷口に塩どころか、辛子も胡椒も合わせて塗っていいの」
と、母は父への愛情たっぷりに笑いながら言う。

その瞬間。「あぁ、胡椒!買うの忘れてた!」
二人で大笑いして、私はスーパーに走った。

あああ、これが欲しかったぁぁ!ようこそ私のキッチンへ!

母が言っていた。
「よくパパとケンカするんだけどね、でも気づいたのよ。憎んでないの。だから、ケンカして文句言いたいだけ言うと、スッキリするのよ」

つくづくいい夫婦だなぁと思う。
だから。遠くにいても、安心。
そして。これからは半年に一度は様子が見れる。



ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。