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「自分に自信がなくて、どうしたらいいですか?」と、会場で問いかけた1年前の私へ。

2018年11月9日、私は日本財団主催の東京アルビニズム会議に出席すべく、溜池山王にある日本財団ビルにいました。

その日は朝から雨が降っていて、しかも、人と待ち合わせをしていたにも関わらず、開始時間を勘違いしていて大遅刻した上に、会場の座席はそこそこ埋まっていて、最前列に通されてヒヤヒヤしていた…そんな全く落ち着かない状態で1日が始まりましたね。

遠くの席に、顔見知りの日本のアルビノ当事者たちが固まって座っているのを「いいなあ」とチラチラ横目で見ながら、その場に落ち着くまでえらく時間がかかった記憶があります。休憩を挟んで、アルビノの知人女性が隣に座ってくれるまで、ずっと内心そわそわ、そわそわしていたのです。

アフリカのアルビノの現状を詳しく知らないまま参加してしまい、100パーセント理解ができたかと言われれば、残念ながらそうではないです。だからこそ、不完全燃焼で、せめて何か自分にとってプラスになるものを持ち帰りたいと、当時の私は考えたのではないでしょうか。

アルビニズム会議が行われること自体が、画期的だと言われました。また、1度きりの開催ではなく、継続的な開催が重要であるとも言われました。

会議に登壇しているのは、アフリカや日本の優秀な当事者たち。アルビノであっても、さらに、アフリカの厳しい現実の中で、何かしらの役割を持ち、社会に貢献している人たちが一同に会している場面を見て、いち当事者としてとても勇気付けられました。

勇気付けられたからこそ、教わりたかったのです。次、開催されるかどうか確約のないこの会議。このチャンスは逃してはいけないと、強くそう感じましたね。とはいえ、大規模な会場で、大勢の人たちの前で質問や意見を言った経験はありません。他の質問者がしているような難しくて賢い質問も、残念ながらできません。

どうせ、私は賢さも何の取り柄もないちっぽけな存在だから、どうせ、会議に登壇している人たちのような努力をすることが苦手。だから私には自信がない。どうせちっぽけなんだから、賢さの微塵もない、場違いなダサい質問をしても他の立派な質問がこの質疑応答の時間を有意義に彩ってくれるはずだと、やや投げやりになりながら、私にできることはスーパー個人的な悩みを打ち明けるしかないと思ったのです。

「この質問が終わったら、次、手を挙げよう」

前の人の質疑応答がされている中、「自分に自信がなくて、どうしたらいいですか?」と、何度も何度も質問文を頭の中で唱えていましたね。ですが、マイクを渡されて立ち上がった瞬間に全て忘れましたね。

その後、私はどんな言葉で質問をしたのか記憶にありません。想像以上に緊張したことと、声が異常に震えていたこと、知り合いのADがこちらにカメラを向けていることに気づいたこと、それくらいしか記憶にありません。

質問は、答えをもらうことに意味があるはずなのに、私は質問したことだけでどこかやりきってしまったところもありました。パンパンに膨れた風船が一気に空気が抜けるように、私は質問を終えたような気がします。

席に着いても、激しい動悸は治らず、呼吸を整えている間に、気がついたら会場の空気感がさっきとは少し違っていました。初めは状況が飲み込めず、状況を理解するまでに少し時間が必要でした。ただ、状況が飲み込めないなりにわかったのは「なんか一生懸命答えてくれている」という、私の予想に反した登壇者の反応だったのです。

結局、ほぼパニック状態だったので回答のほとんどを聞き取れずに終わってしまったのですが、自信を持つためには「自分自身に投資をすること」と、今は立派な役職に就いている彼らも、自信がなかったりして、年齢や性別、国籍は違っていても同じであることがわかり、安心した記憶があります(他の回答を覚えている方がいらっしゃいましたら、教えてください)。

質問前は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけれど、質問後は少しだけ世界がひらけたような、繋がりが深まったような、そんな感覚を覚えました。

そんな、小さなアクションを起こしてからちょうど1年が経とうとしています。

この1年。私にも色んなことがありました。就職に苦戦したにも関わらず、結構あっさり仕事は辞めました。友人が増え、元からいた友人はさらに関係性が深まりました。「どんな気持ちでも、その気持ちはあっていい」と、自分に対してやさしくできるようになってきました。

「自信は高くあるべき」と、何とか高めようとして苦しんでいたけれど、無理に上げる必要もないのです。自信があることに越したことはないけれど、自信のキャパにも個人差があります。自信の高さはみんな一律である必要はないし、無理に高めようとして得た自信は、果たして本物の自信なのでしょうか。

今の私から1年前の私へ。

「自信は自然とついてくるから、心配しなくていいよ」

そう、声をかけてあげたいです。

今の私は、アルビノも「見た目問題」当事者としてもほぼ卒業しつつあると思います。長年感じてきた生きづらさも、年々軽減してきているように思えます。ただ、時々はアルビノや「見た目問題」の生きづらさが顔を出すことがあるので、揺らぎながら年齢を重ねています。生きづらさを感じた時、弱気になった時は、安心して誰かに迷惑をかけても大丈夫です。安心して弱れる関係性を多くの人と築いていきたいと考えています。

少し前までは、ツイートするほど生きづらさの海に溺れそうになっていました。

今はどうかというと、以前に比べれば肺活量がついて、溺れずに済みそうです。そして、生きづらさの海を泳ぐ勇気もついてきました。

上記の通り、私はアルビノや「見た目問題」の生きづらさからは卒業しつつあるものの、アルビノや「見た目問題」だけが私を構成しているわけではありません。私が女性であることや、25歳であること、一人娘であることなど様々な要素で私が成り立っていて、そこには、生きづらさの海が存在することもあるのです。

いつ、どこにいても生きづらさの海があることに若干肩を落としつつ、肺活量がついてきた今だから、これからも様々な生きづらさの海を渡り泳いでいく生き方をするのではないかと思っています。

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