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博士の愛した 数式




これほどまでに優しく慈悲に溢れた物語が かつてあったかな、

あったかもしれないけれど どれほど前にそのような本にであったのか

と思い出すのが困難なほどの

以前読んだ趣深い本の存在も忘れさせてしまうほどの 

心に染みわたる本だった。

手あたり次第適当なチョイスで本を選んで読んでいるけれど

こうして 本のページをめくる手を休めることなく

延々と集中力を切らすことなく 終いまで 我を忘れて没頭できる本には

なかなか出会うことがない。

柔らかく穏やかに しかしがっしりと強く 胸を締め上げてくる。

もう理由などわからないくらいに 気がついたら涙がずっと

こぼれ続けるような本だった。

私の知っている ディジュリデュ奏者のGOMAという男性は

交通事故によって

この物語に登場してくる 「博士」と 同じ高次脳機能障害を負って

記憶を新しくインプットできなくなってしまう。

東京パラリンピックの開会式を見た人は覚えているかもしれない。

曲を担当していたのは 彼GOMAだった。https://gomaweb.net/profile/

GOMAも また「博士」と同じように 

自分の行動をメモしたりして 自分が何をしたのか

している途中なのか 今後の予定を すべて書き残すようにしている。

ディジュリデュライブの途中で 自分が今 どうしてここに立っているのか

解らなくなった時の為に 

マイクスタンドに「ただいま静岡でライブ中」と メモ紙を貼ったりしている。

彼の演奏を 事故前から知っているけれども

事故前と事故後は 全くの別人のようになってしまったと言われている。

それは記憶とともに 彼自身のアイデンティティーが失われてしまったからなんだと思う。

人がまっすぐ「死」に向かっての 一本の道を歩いているわけだけれど

その道程には 数限りない さまざまな 出来事があり

その積み重ねの上で 「今の自分」というのが 成り立っている。

ある時点で 記憶がなくなり

その後ずっと 積み重ねのできない人生を歩むことになると

人は 自分を見失う。

昨日までの自分がどんなことをしていたのか

それって 今日の自分を形作るために この上ない重要な情報なのだ。

それが毎日毎時間 リセットされ 

先ほどまで築き上げてきた自分の 砂の城が

振り向いた瞬間に 波が綺麗に洗ってしまい ただの砂に戻っている。

そういうことの繰り返しを 生きている。

それは まっすぐに「死」に向かって進む一本道 とは言わず

断片的に切れ切れな時間を さらに

なんども同じ道を その前も昨日も今日も 繰り返し歩く作業と同じこと。

博士はそんな 繰り返しまっさらにリセットされる毎日の中でも

神の作りだした数の美を記憶に刻み付けたまま

ひたすらその 解明しきることのできない

数の美に魅了され 日々自分の時間のすべてをかけて

地球が生まれる ずっと前から そこに存在し続けていた

数の美を 解明しようと している。

それを見守る一人の女性とその10歳の息子の視線が

穏やかでとても慈悲深く優しい。

自分たちは 毎回忘れ去られてしまう存在にもかかわらず

博士と 思い出を作ろうとする。

その思い出も すぐに次の瞬間には 忘れてしまうのにも関わらず

一生 残るような 輝いた時間を過ごそうという

努力を惜しまない。

先から先からどんどんと消えていく記憶と

その博士とともに 代えがたい 忘れがたい 思い出を刻み

成長していく息子と女性。

博士の消えてしまう記憶は 毎回 

零れ落ちていく砂のようにはかなくて 寂しい。

作っては壊れ作っては壊れる砂の城。

切ないけれど

流れ去る砂をあえて無理やり止めようとせず

無に戻っていく その静かな光景を

ゆるやかに 穏やかに 見守り続ける二人。

痛く美しいストーリー。

忘れられない本の一冊になった。

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