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我生涯(まだ存命ですが)

 2年前の1月、世に言う後期高齢者になり現在77歳、同年の妻と二人で東京の日本橋人形町に住んでいます。3年前まで現役で働いていましたが、まわりに(多分)惜しまれつつリタイアしました。世にいう終わった人・です。体の方は年なりに色々ありますが、ともかく・・・・人形町生活を楽しんでいます。

 1947年1月に原爆後の広島市で生を受け、いわゆる被爆者2世ですが、何の影響もなく、今日に至ります。4歳で父の転勤に伴い、一家は東京に転居、22歳で大学の工学部を卒業して某鉄鋼会社に就職しました。志望の動機は、当時、給与が断然よかったから。以降、レールから大きく外れることなく、74歳までコツコツ地道に真面目に働きました。

 美人(?)の妻とは学生時代の20歳で知り合い、それなりの紆余曲折はありましたが、25歳で結婚、息子2人を授かり、多少のことは別として大きな問題はなく、平穏に云十年過ぎて現在に至っています。

 30代までは第一線の技術者で、自信もあり実績もかなり・・・と自分では思っていますが、他人がどう思っているかは、訊かないことにしているので分かりません。因みに世界で取得した特許は150件ほどに上ります。

 53歳で新潟の子会社のトップになり妻帯同で赴任しました(息子たちは既に就職して家出済み)。日本海沿いは勿論、北海道、京都、沖縄などへの旅行を楽しんで8年間を過ごした後、61歳で上場企業のトップになり、東京にもどりました。

 本来、内向きな性格で、大勢の先頭に立つことには向いていないのですが、生来のケチが功を奏し、優秀な社員と時の運にも恵まれて会社の業績は好調そのもの、67歳で(多分惜しまれて)退任しました。直後、姫路の会社から経営者としてスカウトされ、74歳まで7年間、姫路でサラリーマンの延長戦をしました。京都片泊まりの宿、神戸のジャズライブ等に毎週のように妻と二人で出かけて、初の関西生活を堪能しました。

 3年前に、姫路の会社を退任し、東京日本橋人形町の自宅に戻りましたが、一昨年3月に食道癌が発覚、長年の諸々の(悪事の?)結果かもしれませんがいずれにしても後の祭り。もはやこれまでと思わぬでもありませんでしたが、気持ちを切り替えて必死にネットで検索して、(先進の)陽子線治療に行きつき、千葉の病院で一月半の治療を受けて、一旦は落ち着きました。

 その1年間後、昨年8月に再発が発覚。手術を回避して、PDTという内視鏡によるレーザーを使った治療を受けました。更にその1っカ月後、再度の再発、つまり再再発、再度PDT治療を受けました。今は小康状態ですが、今後も再発があれば、その都度治療し、やがて収束するのを期待するのみ、収束せずに発散すればそれまで。発散の確率の方が高そうですが、その時はその時、どちらにしても、生涯無罪放免とはいかず、妻改め監視人の24時間の監視下で酒は厳禁、何のために生きているのか・・・よくわかりませんが、止むを得ず、おとなしく過ごしています。

 15年ほど前に両親を見送り、2人の息子は50歳と46歳、ともに一家をなしているから、世代の受渡役は完了、暇に任せて、読書三昧、パソコンで駄文を書き、人形町散策・ランチの食べ歩きなどに励み、残り少ない(であろう)人生を楽しんで過しています。2年前に監視人の指示で遺言書を書き、自ら戒名を付け、ついでに監視人ともどもの遺影も決めて、最早いつ逝っても大丈夫、後顧に憂い無し・・・のはずです。

50代、京都にて

 どちらにしても、残された時間はそう長くないのですが、少しでも変化を求めて、最後の最後まで人生ゲームを楽しむつもり。だから、延命措置などお断りして、その時はスパッとお別れしたいと希望しております。


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