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他人ウケより自分ウケ

僕はずっと『他人ウケより自分ウケ』を意識している。具体的に何が他人よりも自分のウケを大切にしているのか。それは見た目だったり能力だったり日常の過ごし方だったりと細かく上げれば色々あるが、一言にすると『生き方』だ。

僕のメイクは女装のセオリーからすると完全にNGだし、僕が女装のために作っている体も完全にNGだ。そのせいか女装の先輩からめんどくさい口出しをされることもあるが聞く気はない。僕は女装して他人に褒められたいのではないしフツーの女のコみたいになりたいわけでもない。僕は『僕の理想の女』になりたいから勝手に近づいているだけで、その理想を知らない人間に口出しされる筋合いはない。

女装に限らず、そもそも僕の生き方について他人から口出しされる筋合いなんかないはずだ。当たり前だがその他人様と僕は同じことに幸せを感じるわけじゃない。他人の口出しは回転寿司で食べていいネタを指定されるようなむず痒さを感じる。いつ何を選びいつ楽しむかを決めるのは僕だ。

ただ僕は昔から『他人ウケより自分ウケ』を意識してきたわけじゃない。漫画家として多忙な毎日を送りヒット作を出してお高いマンションに住んで弟子を何人も抱える…なんて分かりやすい成功像を追っていた時期もあるし、むしろこっちの方が長い。

この成功像を追うことを必ずしも『他人ウケ』と決めつけるつもりはない。ただ僕はこの分かりやすい成功像を追った理由は突き詰めると周りを見下したかったからだ。

チヤホヤされたい。「すげぇ」って言われたい。他人に目指されたい。キライなヤツを圧倒的に上の立場からダメ出ししたい…そんな理由しかなかった。それに気づいたときに僕はそれを「虚しい」と感じた。

自分が手に入れれば幸せだと思っていた『幸せ像』は、ただ単に周りが欲しがっていたから自分も欲しがってただけ。周りがその『幸せ像』に興味を示さなくなったら僕のアイデンティティは崩壊する。見下せなくなる。それって、自分で自分の生き方の舵を握っていると言えるのだろうか?

他人の欲求に振り回され続ける『自分ウケより他人ウケ』の人生なんて、誰かが作った人生ゲームで使うコマと同じなんじゃないか?人生ゲームではコマのデザインなんかどうでもいい。ゲームさえ進行すればコマに個性はいらない。ゴールという『幸せ像』をただ追っかけるだけ。ここに『自分』なんかあるんだろうか?

なんてことをグルグル考えて僕は「自分の幸せって何だろう?」と、他人がどうとか社会がどうとか関係ない幸せ、『他人ウケより自分ウケ』を探すようになった。

他人の目なんかどうでもいい。否定されても肯定されても関係ない。国が違えば文化も違う。フツーに生きていたらまず出会わないような趣味嗜好の人だけが集まるお店もある。時代が変わればファッションだってモテる顔だって体型だって変わる。今この瞬間接している『周り』と1年後に接している『周り』が同じ人とは限らないし、同じ価値観の人とは限らない。

なのに『他人ウケ』なんて意識してどうする?天気のようにコロコロ変わる『他人ウケ』をなぜ『自分ウケ』より優先する?

この世界で本当に一生の付き合いなのはたった1人『自分』だけ。なら、もっと『自分ウケ』を大事にしても良いんじゃないだろうか?自分が純粋に幸せと思えることをもっとしても良いんじゃないだろうか?

僕は嗤う人生より笑う人生が良い。他人がどうとか関係ない。僕は『他人ウケより自分ウケ』で生きていく。

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