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カラーバリエーション

午後三時を過ぎていた。隣駅まで徒(かち)で向かう。道すがら下校する小学生たちとすれちがっているうちに、数日前のことがよみがえってきた。

場所は出先の商業施設。上りエスカレータで運ばれているときに、下ってゆくカラフラなランドセルの並ぶポスターをみて思ったのだ。
「もはや赤と黒なんて、いないのかも」

二十年前、長女のランドセルをもとめた時代にも赤色のバリーション三、四色に加え、ピンク、黄色、水色、茶色、紺色、黒、この程度の選択肢はあった。長女の場合は赤色のバリエーションの中から、ピンク味のある赤色を本人が選んだ。特別目立つような色ではなかったけれど、それでも、冷やかされはしないか、夫とわたしは少しばかり心配したおぼえがある。
こうあるべしという固定概念をまえにすると、「決めつけなんて、まっぴら」反抗心が芽生えるような一面をわたしは持ち合わせているが、こんなふうであっても、こと子どものことになると常識的思考(のようなもの!)、たとえば、目だ立たず、皆と同じが無難というような考えがはたらき、ものの見方に偏りが生じることもある。
ふたをあければ、ピンクや水色のランドセルを背負う子どもは数人あったが、赤や黒以外の色であっても浮いては見えなかったし、それでいじめ問題が起きたというはなしも聞かなかった。

多様性。少数派。ジェンダーレス。加速度的に耳に馴染んできた言葉であり、耳にするたび差別的な発想をしていないか、配慮に欠けることをしてやいないか、自分自身に問わない訳にはいかなくなってきている。それでポスターをみたあの日、いまやランドセルの色問題は「赤じゃないといじめられるかも」から「さらなるカラーバリエーションを」ということになっているやも、と、いまどきのランドセル事情にほんの一瞬、思いをめぐらせたというわけだ。

ところが。すれちがった赤と黒のなんと多いこと! 二十年前よりはピンクや水色が多少は増えてはいるが、印象としては赤と黒。黒は男の子で、みた限り黒以外はいなかった。
なるほど「ランドセルは赤と黒などと思い込んではいけない」こう思うこと自体が多様性の概念から離れているということなのだろうか。差別はしちゃいないが、差別しないぞという思いが新たな差別をよぶように、多様性というのも実に難しく、なんだか多様性という固定概念が新たに固定されかけている。

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