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少年法に守られた人間が日本の社会に訴えたいこと

“ゲームやネットの影響を受けて凶悪犯罪を簡単に犯す未成年が増えた“

と言う人がいるけれど、私は今に始まったことではないと思っている。

日本人のクソみたいな“美徳“である、臭いものに蓋の精神は今も昔も変わらないだけではないだろうか。


最近起こった事件の中で私が興味を持ったのは以下の2件。

・茨城一家殺傷事件

・立川ホテル殺人事件


茨城一家殺傷事件の犯人は、私と同じ関東医療少年院を出院している。

要は未成年の時に逮捕されて少年院送致になっておきながら、更生せずに再犯したわけだ。

一方、立川ホテル殺人事件の犯人は初犯だが、犯行時19歳と未成年だった。


結果から言うと、私はどちらも死刑にするべきだと思う。

死刑が妥当ではないなら、精神病院に死ぬまで監禁する以外に彼らを生かしておく方法はない。更生などと生ぬるいことをキチガイに期待してはいけない。


こういう事件が起こると必ず少年法や少年院を真っ先に叩く人がいるけれど、そういう人間に限って臭いものに蓋をして生きていると断言できる。


戦後間もなく制定された現在の少年法は、確かに今の時代に合っていないと思う部分もある。

しかしそもそも日本の裁判所は“前例に倣え“が基本であり、社会や国民感情ではなく、飯塚幸三のような上級国民の顔色で判決が下される部分が少なからずあるのが現実だ。

少年法の改正が必要なことは大前提として、木を見て森を見ずではなく、これを機に広い意味で日本の司法に改革が必要なことを知ってほしい。


医療少年院には素人の私から見ても、一生社会に出て暮らすことはないだろうと思うイカれた子どもがたくさんいた。

なにをどう考えて自分の使用済みナプキンを食べるのか私には理解できないし、さっきまで笑っていたのに突然隣の人間に襲いかかる意味も分からない。

そういう子どもが常人には理解できない殺人を犯したと聞いても、私はなんら不思議に感じない。

彼女たちは少なくとも私の知っている“人間“ではなかったし、薬や対話という治療で人間になるとも思えなかった。


茨城一家殺傷事件が起こって酒鬼薔薇聖人の名前が出てきたけれど、酒鬼薔薇聖人も関東医療少年院を出院している。

私が関東医療少年院に入院したとき、担当医は酒鬼薔薇聖人と同じ精神科医だった。

彼には女性と男性の医者が模擬の両親として治療にあたったそうだが、私が医療少年院での日々の生活を通して思ったのは「こんなことで殺人犯が更生するわけねえじゃんw」だ。


悲しいかな、この世には一定数、人として大切なものが欠落した人間が産まれてしまう。

親や環境に関係なく、人を痛めつけることに快楽を覚える“人間の形をしたナニか“が残念ながら存在する。

彼らに効く治療法は存在しないし、彼らを他の人間と同様に考えるのはやめた方がいい。

気持ちいいからセックスが好き!という感覚で、彼らは、気持ちいいから人を殺すのが好き!だ。そんな人間にいくら殺人がいけないことだと説いても理解できるはずがない。

人権だのなんだのとほざく連中は、彼らにとってのセックスの相手になってあげればいいのではないだろうか。

その上で、生きて帰ってこれるなら綺麗事を声高々に叫べばいい。

人のオナニーに付き合わされる感覚で殺された人間の気持ちをよく考えた方がいい。


私が中学生の頃に付き合っていた人の職場に、女子高生コンクリート詰め事件の犯人が働いていた。

この事件を起こした犯人たちは結婚して子どもがいる。再犯を何度もしておきながら今日も社会で普通の顔をして生きている。

見る目のない裁判官のせいで、彼らは更生すると判断され世に放たれた。

未成年だったから。

まだ子どもだから。

だから許された。


子どもを愛し守ることの意味を知らない親が増えすぎたせいで、過保護に手厚く育てられた子どもは加減も痛みも知らないまま育つ。

昔は教師や近所の怖い人が加減も痛みも教えてくれたが、今じゃその教師すら加減も痛みも知らない始末だ。

過保護で面倒な親のせいで教師はクレームの怖さから“見てないフリ“をして、気付いた時には手に負えない結果になる。

近所の怖い人がいなくなったのも、同じ理由だろう。

だが、それは自分の子どもから道徳や“社会の中で生きることの大切さ“を学ぶ機会を奪っていることになるのではないか。


気が狂った“人ではないナニカ“による殺人を減らしたいなら、前例に倣えの裁判も変えるべきだし少年法も見直すべきだろう。

人権だのなんだのと綺麗事を言っている暇があるなら、日本の精神異常者への対応施設や治療法をよく調べたらいい。

ほとんどが時代遅れの対処療法だということを知ったら、障害者施設で大量殺人を犯した植松聖被告の言い分も少しは理解できるのではないだろうか。

彼は重度の障害者に生きる権利はないと言っているけれど、仮にそうだとしてもそう決める権利が植松被告にはないことをまず自覚した方がいい。

だが、彼が大麻による影響で気狂いの行動を起こしたなどと臭いものに蓋をせずに、これを機に「少なからず臭いものの蓋となるべく日々負担を強いられている人間がいる」ことを知ってほしい。


少年院の法務教官は暴力を振るわれても、相手が子どもで精神病なら仕方のないことなのだろうか。

教師は?社会にごまんといる人間は?

相手が幼い子どもなら、仕方ないと許す以外にないのだろうか。


その昔、私が赤羽駅で友人を待っていたとき、突然目の前に高校生くらいの男の子がきてズボンをおろしてちんちんをしごき始めた。

後ろから追いかけてきた付き添いの男性が「ごめんなさいね」と笑って、手を引っ張って去っていった。

これが健常者の男性なら一発逮捕でも、彼は未成年で且つ誰が見ても分かる障害者だったから笑って済まされたわけだ。

汚いモノを見せつけられた方は健常者も障害者も関係ないし、ヘラヘラ笑って「分かるよね?許してね?」という表情をされてもそちらの事情など知ったことではない。


少年法自体は存在していてもいいと私は思う。

“若気の至り“は程度の違いこそあれど多くの人間が通る過程で、やり直すチャンスはあってもいいというのが個人的な意見だ。

だが、茨城一家殺傷事件も立川ホテル殺人事件も更生の余地などない。

そんなことは誰の目で見ても明らかで、子どもだからなんてふざけたことを言っていると数年もしないうちにまた誰か殺される。

川崎の多摩川でリンチの果てに殺された少年事件の犯人も、死刑でよかった。

酒鬼薔薇聖人も女子高生コンクリート詰め事件の犯人もみんな、社会のために生かしておくべきではなかった。


日本の法律、裁判所、政治家、裁判官、検察、警察、弁護士、保護司、教師。

誰かが心を鬼にして判断を下さなければ、人ではないナニカは満たされるまで快楽を求め続ける。

彼らに年齢は関係ないし、いくつになっても同じことの繰り返しでしかない。


私は少年法に守られて今も生活しているけれど、裁判官の判断次第では大人と同じ裁判を受けると逮捕されてすぐに弁護士に言われた。

“あらゆるところに自分の実名が出て人生が終わるんだ“と思ったが、関東医療少年院送致と言われたとき、少しだけ光が見えたように感じた。

出院して下着泥棒の被害に遭ったとき、警察は優しく丁寧に対応してくれた。

綺麗事は抜きに実際に経験した者として、変わろうと思えば社会はいくらでも味方になってくれる。

たとえ前科者だったとしても、その後の生き方次第でどうにだってなる。


もう病気や年齢を理由に、犯した罪を考慮するのはやめた方がいい。

どんなにクソみたいな人間だって変われない理由はない。

本人の気持ち次第で如何様にでもなるのに、人ではないナニカにはその感覚すらない。

人を殺すことが悪いことだと思わない人間になにを期待するのだろうか。

それが病気だから未成年だから許されるなら、いくらだって人を殺すだろう。


まぁ個人的には、今の日本のトップ政治家の半分が死なない限り、日本は子どもにとってあまりいい国にはならない。

選挙権を持っているのも大半は人生を終えたような人間で、彼らが考える“これから先“は“子どもたちにとってのこれから先“とは違う意味合いを持っている。

どう考えても若者より老人が多い現在の日本で、若者優位な政策はウケない。

昔は身を切って国のために働く人が政治家を目指したものだけど、今じゃ肩書きとお金が欲しいためだけの選挙だ。

そんな選挙で多くの票を持っている老人を無碍にすれば当選などあり得ないし、若者優位な政策を打ち立ててもその若者の多くは選挙に行かない。

悪循環に少子化も加わって、これから良くなっていくことを予見できる人は少ないのではないだろうか。


最後に最も強くお願いしたいのが、このnoteを読んで終わりにしないでほしい。

討論するだけではなにも解決しない。問題は話し合いで終わるものではない。

これからどうするのか、どういう方法があって、どういう選択肢があるのか。

これを機にたくさんの人が少年法や少年院のあり方について考えてくれると嬉しい。





















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