自分らしく生きれば、自分らしく死ねるのか
昨日は、福岡死生学カフェに参加してきました。
死生学カフェでは対話を通して、普段は話せない死について考えていきます。
死については、身内の死と出会うとき、それから天災によって自分で考えることはあっても、話すことは少ないかもしれません。
人はいつかは、死ぬ。
けど、そんなことは自分に限ってはないとどこかで信じている。
だから死については語らないのかもしれません。そんな死について話すことでどのような気持ちになるのか知りたいと思って参加しました。
自分らしい死とは
死生学カフェで話しを聞いた個人的な内容は口外しないということを大切にしていました。
そのため、初対面の方が多かったのですが、とても話しやすかったです。
今回のテーマ『自分らしく生きれば、自分らしく死ねるのか』を聞いたときに、祖父のことを思い出しました。
そして、自分らしく死ねるという状態は、自分の視点で考えると後悔のないの状態で死が訪れること。
そして、それは死ぬ瞬間のことを指さないと思いました。
死は自死でない限りどのタイミングで死ぬかわからないからです。
事件に巻き込まれたり、面会できないまま終えてしまうかもしれない。
それでも祖父が自分らしく死ねたのではないかと思えたのは、最後までユーモアを忘れずにありたい人と接して自分を貫き通していたと聞いたからです。
他者の心にいるときは、死なない
そして、他者の視点からすると、その人は誰かから忘れられない限りは死ぬことはないと思います。
私は何度も、祖父のことを思い出し、そのたびにまだ生きているなと感じています。
それは祖父に限った話ではありません。
親族でご飯を食べにいったときは、祖父だけでなく、大切にしてもらった人のことを話しています。
葬式やお墓というものは、そうやっていつでもその人が忘れられずにいられるためのものなのかもしれません。
他にも様々なエピソードを聴いたりしながら、私は死を考えることで今をもっと大切にしたいと思えるようになりました。
自分のために生きることも、他者のために生きるのも良くないと言われるけれど、人生はそんなに振り切れるものではなくどちらも大切にできると思います。
そして、共感を得ながら生きる道を選ばざる環境に置かれることもあることを考えると、ずっと自分らしくなければならないとも断言はできないとも感じています。
皆さんは、このテーマからどんなことを考えますか。
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