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多様性

祭り

先週末より、家族の私以外がインフルエンザになるというインフル祭りが開催されていたので、今回の記事は短めです。ご了承ください。

柳田国男さんが提唱する世界観に、ケ・ハレというものがあります。ハレとは非日常。ハレの舞台とか、ハレの日とかで聞くかと思います。つまり、今週開催されていたインフル祭りはハレ。

ハレというのは、晴れが語源であるということからもイメージしやすいですが、とてもいい印象があります。だから庶民もハレの日には、器、食事、衣服などを豪華にしてよいという習わしがあったそうです。

一方、ケとは、ハレと対照的に日常を意味します。しかし、ケという言葉は今ではまったく使いません。いうなれば、今のケはケではないのです。

え?どういうこと?とお思いのあなた。ちゃんと文章を読んでくださってますね笑。ありがとうございます。

今のケ・ハレ

高度経済成長により、庶民も手軽に贅沢な品を手に入れることができるようになりました。ケとハレが同化した感じです。その結果、ケ・ハレという言葉はあまり使われなくなりました。

それでも、日常・非日常の概念は今でもありますよね。非日常とは特別な日という感じです。非日常が今で言うハレでしょう。

例えば、結婚式、葬式のような〇〇式。このときには、場にふさわしい服装で参加し、そこならではのマナーや流れがあります。または、ディズニーランドやハロウィンなど、独自の世界観が作られる場合。このときも、このときだけできる格好があります。

しかし、ここ最近は、ハレならではのマナーや流れが少しずつ削れています。

結婚式では、白ネクタイでない人がいたり、仏滅の日にやったり、結婚式を行わず、披露宴だけ行ったり。逆に、ハロウィンでは、ゴミが大量に路上に放置されたり、ハロウィンではない日に仮装したり。

非日常が日常に少しずつ入っていって、日常が非日常に少しずつ入っていく。ケとハレが同化していく感じです。

これがいいか悪いかを言いたいのではなく、ケ・ハレがなくなりつつあるという事がいいたいわけです。

自由

ケ・ハレ同化の背景には、選択肢の増加があると思います。

例えば、テレビ。放送日に仕事があるから、見たいテレビを録画する。録画がかぶっていると嫌だから、2番組録画する。録画し忘れたら、TVerなどの見逃しアプリで見る。前すぎるのは、アマゾンプライムで見る。

他には、仕事。職場に行きたくなければテレワーク(できるところは)。給料が少なければ、兼業。したいことがあるなら副業。育児中は短時間勤務。

または、学校。教室に入りにくければ、教室外の部屋(私の仕事です)。学校というのが合わなければ、フリースクール。親がみれれば家で、ホームスクーリング。親がみれなければ、家庭教師。学校には無理だけど外には出れるのであれば、通級指導教室。個人の進度に合わせるならば通信。

コロナの助けもあってか、物事の選択肢が非常に増えました。それだけ世の中がいろいろな個人を許容できる範囲が広がり、準備ができているということでもあります。

しかし、そんな個に合わせた選択を阻むのが、「常識」という個人の考えです。

テレビに関しては趣味の範囲なのであまり言われませんが、職場でフルタイムで働けなければ・・・とか、学校の教室で勉強しなければ・・・とか。結婚式は大安でなければ・・・とか。

本来はその常識は常識として機能していました。多くの人の考えが常識と言われ、普通と言われたからです。だからこそ、他人に多少押しつけても数の力で通用しました。しかし、選択肢の増加により、多様な考えが許容されるようになり、常識が常識として機能しなくなることもあります。

そのとき、個人がもっていた常識は一つの考えになります。数の力が弱まった今、常識もひとつの考えとして尊重しますが、常識以外も一つの考えとして尊重されるはずです。平等になぜそう思うのか、どんな気持ちなのか、どうしたいのか。

自分が絶対ではなく、他人が絶対でもなく、一人一人を相手に対話を重ねていきましょう。たとえ子どもであっても同じです。

繰り返しますが、世の中は多様な個人を受け入れる準備ができています。インフル祭り後の私の即興の短い記事も受け入れていただけることを願っています笑。

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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