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自分でできることは自分でしなさい

変わらぬ風景

毎朝、次男を保育園に送っていると、いろいろな子どもに出会います。

ちゃきちゃきと支度をする子、親よりも友達と一緒に行動したがる子、抱っこされている子。そしていつの時代もいるのが、親と離れられずにいる子など様々です。

そんな多様な子に対して先生が言うセリフはほとんど変わらず

「一緒に行こう。」

決して無理矢理ではないけど、促す感じもあり、行きたくない子どもと急ぎたい親の両方に配慮をした言葉です。別に先生は何かを手伝うわけではありません。ただ一緒に手をつないで歩くだけです。

しかし不思議や不思議。それで大半の子どもは行けてしまうのです。親と離れるのが嫌だったんではないの?ってツッコミたくなるくらいあっさりと笑。

先生に対する信頼が大きいのでしょう。

我が次男は年中なので本来であれば、玄関で親と離れお部屋まで一人で行きます。事実次男以外の子は一人で行きます。ですが、次男はお部屋の前までは一緒に行かないとダメです。

部屋の前に行くと、すでにお部屋にいるお友達が来てくれて言ってくれます。

「一緒に行こう。」

別にそのお友達と仲良しな訳ではありません。大抵しっかりした女の子です笑。初めは先生も来てくださっていましたが、今はお友達が来てくれます。

両方に共通するのは、一緒に行ってくれる人がいるということです。人が横にいてくれるというだけで、がんばれてしまうものです。

自立

教育は自立のためという意見を言う人が多いです。そして、具体的な自立のバロメータは「一人でできる」です。

算数の筆算ができない状態から、授業を通して筆算ができるようにする。学校の先生の仕事の一部ですね(一部っていう表現に皮肉をこめています笑)。

できないことをできるようにする。ここに教育の価値が見いだせます。

私が教員を目指した動機もそうです。部活で後輩に教えていたら後輩がどんどん上手になっていった。それがとても嬉しかった。

でもいろいろ経験を重ねてくると考え方が変わってくるのです。

「物理的にできないことって、あまりないな」って

ちょっとわかりにくいかも知れません。伝わりにくいかも知れません。もうちょっと辛抱して読み進めてください。

先ほどの算数でいうと・・・。実は算数の授業ってつながっていて、前回の授業の見方を変えたり、パターンを変えたり、学んだことを組み合わせたりすることで、その日の授業内容って分かったりする時間が多いのです。

2×4って九九知らなくても2+2+2+2をすればできますよね。8÷2って、割り算知らなくても、かけ算分かればできますよね。とすると、足し算さえできれば、割り算もできる。というか、足し算もおはじきなどの具体物があれば数を数えられればできるんです。

速くはできません。また数え間違いがあるかもしれないので正確ではないかもしれません。ただそれだけです。できないわけではないのです。

もっと身近な例で言うと、料理。「料理できません」という人いますよね(私も聞かれたときにはできませんと言うので安心してください)。

レシピもある。調理器具もある。材料もある。であれば、目が見えて、調理器具を持てる握力さえあれば、できない料理などありましょうか。

もちろん速くはできません。きれいに作れるのかは分かりません。ただそれだけです。

もっと分かりやすい例を出します。「学校に行くことができない」という人。今まさに私がそのような関係の仕事に関わっていますが、不登校の人で、物理的に学校に行くことができない人は一人もいません。もし居るとすれば、自分の意志で自分の身体を動かすことができない人のみです。

歩くことができれば、学校には行けます。

なんとか私が伝えたいことを感じ取っていただけますかね?

「物理的にできないことはあまりない」

実際にできないのは、メンタルの問題が大部分なのではと思うのです。

自分でできることが増えるけど

さきほども言ったように物理的に言えば、自分でできないことはあまりないのです。小学生くらいの身体能力があれば、明日の学校の準備なんて朝飯前でしょう(実際には帰宅直後がいいですね笑)。

でも実際は、「疲れた」「面倒くさい」「後で」「忘れてた」などと言って、こちらが請求して声掛けてようやくできるのではないでしょうか。またはやらないか笑。

朝ご飯を作る。晩ご飯を作る。洗濯をする。など、家事のほとんどだって小学生ほどの力があれば、物理的にはできることでしょう。できるからこそ、ヤングケアラーが存在するのです。冷徹な目で見れば、ヤングケアラーの子どもたちは同世代の子どもたちよりできることがかなり多く、素晴らしいとなります。

めちゃくちゃできることが増えますし、一人で生きていく力をぐんぐんつけます。それは、教育がめざすところですよね。

では子どもをヤングケアラーのようにするのが、教育として素晴らしいのか。

それはきっと違いますよね。実際のヤングケアラーの方たちも望んでそうなったのではなく、そうせざるを得なかっただけだろうし、親たちもそうしたかったわけではないと思います。

何が違うのか。自分でできることは自分でやる。ここに違いはありません。

違いは、そこに自分の想いが存在するかどうか。だと思います。メンタルの問題です。自分がしたくてしているかどうか。だから教育を考えるときには、動機付けが欠かせません。授業を考えるときに導入が重視されるのもそのためだと思います。

あなたがいるだけで

学校では、大体6時間の授業があります。時間割が組まれ、1時間目は国語。2時間目は算数。・・・といったように6時間の学習をします。6時間勉強するって、冷静に考えてめちゃくちゃ大変だと思いません?

自習で1日6時間やろうと思ってできる人は果たして何人居るのでしょうか。

でも、多くの子どもは6時間勉強します。ま、6時間勉強とは言ってもぼーっとしていたり、聞いていなかったり、ノートに落書きしていたりすると思いますが笑。

でも、とりあえず6時間過ごせます。

教えてくれる先生がいるからではないでしょうか。励ましてくれる友達がいるからではないでしょうか。だから、勉強あんまり楽しくないときもあるけど、まぁがんばるかってなるのだと思います。

仕事だって同じだと思います。新型コロナで在宅勤務を経験した人は多いと思います。さて、在宅勤務で会社にいたときと同じように仕事ができた人は果たして何人いたでしょうか。

それは一緒に働く人がいたからではないでしょうか。だから、まぁがんばるかってなるのだと思います。

一番最初に書いた保育園でも同じです。一人ではなかなか部屋に行けない子も、子どもながらだれかと一緒ならまあ行くかって感じになるのだと思います。

一人ならできないことでも、だれかがいればできる。居るだけでがんばれる。だから、あなたの存在自体に価値があるのです。

実際に、手伝わなくても、協力しなくてもいいんです。

居るだけでいいのです。

価値のない存在などない。

優しい世界を目指して

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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