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墺仏日給食比較|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題「欲望なしに生きることは可能か?」

 『バカロレアの哲学』の裏メニュー「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活と、実際に出題されたバカロレアの哲学問題を引き合わせて記録していきます。

 今回は、オーストリアとフランス、日本の給食事情を比較しました。

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 地域や年代によって、「給食」という言葉がかき立てるイメージはさまざまでしょう。いい思い出であれ悪い思い出であれ、日本で暮らす多くの大人にとって子ども時代を思い起こさせるのが給食です。多くの子どもたちにとっては、今まさに経験している日常的な出来事です。

 しかし、ひとたび自分の文化や文脈から離れて暮らすと、異なる給食のあり方に出会うことになります。今回はオーストリアの給食と、私が長年暮らしたフランスの給食、そして日本の給食を比べてみましょう。

メインはときどき甘いもの-オーストリアの給食

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 子どもの通う小学校は基本的に午前中で授業が終わります。給食は学校ではなく、ホルトと呼ばれる学童保育所で出されます。給食の後、宿題をしたり、友達と遊んだりして放課後の時間を過ごします。ホルトに通わない子どもたちは自宅に帰って昼食をとることが多いでしょう。

 給食のメニューは毎週メールで送られてきます。2月最終週のメニューを見てみましょう。表からわかるように、スープとメイン料理、デザートの組み合わせになっています。金曜日に魚料理が出るのは、キリスト教の影響があるのかもしれません。

 そして注目すべきは水曜日です。主にジャガイモで作られる団子のクヌーデル(あるいはクネーデル)の中にイチゴジャムが入っています。こうした甘い食事はオーストリアではメールシュパイゼと呼ばれ、子どもたちに人気のメニューです。他にもホットケーキに似たカイザーシュマーレンや、クレープのような、ジャムを塗ったパラチンケンなどがあります。

 メインが甘いもの、というのは結構な衝撃ですが、そのルーツのひとつは皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(在位1848年-1916年)にあるようです。甘党だった彼の愛したメニューが給食にも受け継がれているのです。日本でたとえるなら、明治天皇がおはぎ好きだったので、給食のごはんが週に1回おはぎになる、といった感じでしょうか。

 スープとメイン、デザートの組み合わせはオーストリア料理の基本形のようです。いずれお話しするアルプスの山中のペンションでも、食事はこの形式でしたし、子どもには甘い食事が出されていました。

第3回写真1 フランツヨーゼフ1世

(ブルク庭園にある甘党の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の像)

しっかり食べなさい-フランスの給食

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 同じヨーロッパでも、フランスの給食はまた違います。私が住んでいたボルドーの同時期のメニューを見ると、前菜、メイン(と付け合わせ)、乳製品、デザートが基本形です。必ずスープが出るオーストリアと違い、スープは1回だけ、サラダや食肉加工品が前菜に出されています。ここでは省略しましたが、ベジタリアンメニューも選択できるようです。

 乳製品とデザートが別々に出てくるあたり、栄養を取らせようという並々ならぬ執念を感じますが、オーストリアもフランスも、残さず食べなさいという指導はしていないはずなので、個々の子どものカロリーや栄養素の摂取量にはかなりばらつきがあるでしょう。

 フランスの給食のメニューの構成も、前菜、メイン、乳製品、デザートという基本形からできています。私の通ったボルドー大学の学食も、乳製品かデザートかどちらか選択という違いはありましたが、同じような形式で食事が出されていました。レストランなどでも、品数に多少の違いはありますが、変わりはありません。

 給食はその国の食文化の基本形によって作られ、子どもたちは知らず知らずのうちにその基本形をひとつの「型」として身に付けていきます。そこには好き嫌いや子どもの家庭が背景とする文化の違いもありますので、差異はありますが、学校あるいはそれに類する組織が提供する食事は文化的、社会的に大きな意味を持っています。それはまた、経済的事情等により満足に食事をとれない子どもたちにとってのセーフティーネットでもあります。

第3回写真2

(ウィーンのインド料理店で食べたマンゴービーフカレー)

給食固有の「型」-日本の給食

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 日本の場合はどうでしょうか。同時期の京都市の給食を見てみましょう。主食(ごはんかパン)、汁物、おかず1品、牛乳が基本形です。オーストリアやフランスとは事情が違い、日本の給食の組み合わせを食事の基本形と断言することには躊躇します。大人になると食事中に牛乳を飲むことはほとんどないでしょう。

 このような組み合わせはやはり奇妙に思えますが、同時に乳製品による栄養補給を重視するという考え方も、脱脂粉乳の給食以来続く伝統であると言えるのかもしれません。逆に言えば、牛乳を飲みつつ食事すれば気軽に給食気分を味わえるということでしょうか。今度試してみましょう。

 食は生物にとっての基本的な欲求です。しかし、人間は栄養があれば何でも食べるわけではありません。人は食べたいものを心に思い描き、それを探し求めるという欲望する存在でもあります。給食は社会や制度によって子どもに外から与えられる対象ではありますが、それはまた、子どもたちに食を通じて新たな世界と新たな欲望を開くものでもありましょう(しかしツナごぼうご飯が気になる…)。

欲望なしに生きることは可能か?

 人間は欲望する存在です。フランスの高校で教えられる哲学では、欲求と欲望が区別されます。欲求は生命維持のために充足される必要があるものなのに対し、欲望は必ずしも生命維持には関係のないものだとされます。

 欲求は動物的、欲望は人間固有ともいわれます。なぜなら欲望とは、人間が自分に欠如しているもの、足りないものを意識するという、人間固有の能力によってはじめて生まれるものだからです。

 なんでもいいから食べて腹を満たしたい、というのは動物的な欲求ですが、今ここにないカップ焼きそばを想像して、それを食べたいと願うのは欲望です。欲望は、いつもないものを望むとは限りません。今自分が持っているものを失いたくないという欲望も存在します。健康や財産、地位について、そう願う人は多いでしょう。

 当然のことですが、欲望は常に満たされるとは限りません。それは苦悩の源でもあります。もし欲望が満たされたとしても、それが新たな欲望を生むこともあるでしょう。名誉や力を追い求めて、人は時として破滅に至ります。

 このような欲望の定義を踏まえると、問題「欲望なしに生きることは可能か?」は、人間の生と欲望の関係についての問いだということがわかります。問題に対して「はい」と「いいえ」の可能性を検討することが必要ですが、その手がかりとなるような複数の問いを作っていきましょう。

 欲望なしに生きることはどのようにして可能なのでしょうか。それはよい生き方なのでしょうか、それとも悪い生き方なのでしょうか。なぜ欲望のない生を望むのでしょうか。欲望と人間の生は切り離せるのでしょうか。あるいは、人間の生は欲望そのものだと言うことはできるのでしょうか。欲望は苦悩を生み出すだけなのでしょうか、それとも快楽や喜びを生み出すのでしょうか。

 もし欲望を完全に排除することができなくても、必要な欲望のみを満たして生きることはできるのでしょうか。意志によって欲望を選別し、コントロールすることはできるのでしょうか。どのようによい欲望と悪い欲望を区別することができるのでしょうか。

 欲望と人間の生の関係をめぐっては、このように多くの論点が挙げられます。こうした論点について知りたいと思うこと、それもひとつの欲望の形なのかもしれません。


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