どんなときも、どんな場所でも。いつまでも、まち歩きをたのしめるおとなでありたい

自分に必要な本は、よきタイミングでおのずから目の前に現れるものだと思う。

今回、旅の途中で入ったとあるカフェで出会った一冊の本。タイトルに惹かれて手に取ると、そこには日頃考えていることへのヒントが示されていた。

いくつになってもまちに飛び出す冒険心は忘れたくないし、いつまでも歩くことをたのしめるおとなでありたいと、改めて思える文章に出会えた。

後輩に誘われて、久しぶりに白河へと向かうその道中、黒磯で電車を降りる。以前から気になっていた那須塩原市立図書館「みるる」、そして後輩から「shinさんは絶対好きだと思う!」という絶大なお墨付きをもらっていた1988 Cafe SHOZO へ行くためだ。

実際に中に入ると、どちらも非常に魅力的で、予定がなければ一日中過ごせそうな場所だった。前者ではまた絶対に来ようと決意し、後者で注文したスコーンセットを待つ間、店内近くの本棚を見ていると、ふと一冊の本が気になり始めた。

『深呼吸の必要(長田 弘 著)』

最近、仕事で落ち込んでいた僕だからこそ目に留まったのかもしれない。「本は伝言板。言葉は一人から一人への伝言」あとがきに書かれたこのことばにも、非常に共感を覚えた。

次の電車まで時間が限られる中、この本をきょうの「おとも」にしたことは、我ながらよい選択だったと思う。

本書は大きく二部構成となっており、「あのときかもしれない」「おおきな木」という章立ての中に、それぞれ複数の散文詩がある。詩、特に散文詩なんて高校の授業以来読んだこともなかったのだが、まるでエッセイのように、あまりにもスッと入ってくる文章に少しの驚きを覚える。

前者の中で目を惹いたのは、下記の文章だ。

「歩くことのたのしさを、きみが自分に失くしてしまったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。歩くということが、きみにとって、ここからそこにゆくという、ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。」

幼少期は「歩くこと」自体にわくわくを感じていたものだが、気づけば下を向き、せかせかと歩いている。そんな「きみ」の人生の一時を切り取った文章であり、「おとな」になる複数の瞬間のひとつであり、ただそれだけのことなのだが、この部分が妙に印象に残っている。共感する部分もある一方、少し寂しく感じるのは僕だけだろうか。

まちあるきが好きな僕は、よくまちを歩く。
なじみの道でも花が咲けば季節の変化を感じるし、ときには少し遠回りになったとしても一本奥の道を歩いたりする。何気ない日常にも、ちょっとしたことでも、光や刺激を求めて常にわくわくしている。日常にも「旅」的な何かを欲しているのかもしれない。

ただ、急いでいるときや余裕がないとき、仕事で落ち込んでいるときは、下を向いてせかせかと歩くこともある。歩くことは手段にすぎず、「早く着かなきゃ」、あるいは逆に「もう着いてしまうのか…」そんな気持ちになってしまう。そんな歩き方は前向きなものではなく、苦しい。だからその状態が続く場合、僕は思いきって(必要に応じて有給休暇を申請し)旅に出るようにしているのだが、その「暗い」状態が「おとな」のスタンダードだと思い込んでしまうようなことは、まちあるき好きがスタンダードである僕にとって、やっぱり寂しい。少なくとも、僕はそうではありたくないし、それが「おとな」だとするならば僕はこの先も「子ども」でいたい。
※ ので、この文章はアイロニー的な要素を孕んでいるのだ、本当は筆者もまちを歩くことが好きなのだ、これは警鐘表現のひとつなのだと(半ば都合よく)解釈した。

歩くことが「楽しいこと」であること。それはとてもすてきなことだと思う。新たな世界を求めて、冒険心のままに歩いた幼少期や学生時代。「時間がない」ときでもちょっと周りを見渡すだけで、驚きや発見があることも多いのだ。お店のフォント。道のマンホール。道端のお地蔵様。「あっ」というその瞬間が人生に彩りを与えてくれる。大切で楽しみな「まちを歩く」というかけがえのない時間を、この先もずっと、失いたくないのだ。




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