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【読書感想文】希望の国のエクソダス

再読した本の感想、のようなもの。再読っていっても、前回読んだのは、大学生の時だから、もう10年以上も前のこと。今頃になって、なんでわざわざkindleで購入してまで再読しようと思ったのかは自分でもよくわからない。でも、そういった再会も読書の不思議な魅力、力だと思う。

本当になんでもう一回読もうと思ったのかは、わからない。勝手に理由を推測すると、今の自分の状況からエクソダスしたかったのかもしれない。大人の社会に辟易した中学生たちの行動をもう一度自分の中でなぞったうえで、何かを感じたかったのかもしれない。本当のところはよくわからない。あくまで推測。ただ、読み終わった後で、一つの確信があった。「今もう一度この本に出会えてよかった」

深刻な不況がどの程度影響しているのかはわからないが、自分たちは出口のない穴に閉じ込められているのだと、ほとんどすべての中学生がそういうことを感じているようだった。そしてナマムギは、別の世界があるということを中学生に示したのだった。
由美子はヨーグルトにマーマレードを入れて食べながら言ったのだった。倒産や失業は深刻な問題だが、人材が残っていれば日本経済はいつか立て直すことができる。この数年で、日本の銀行や証券会社、精密機械や電気、化学産業などから、有能な人間が続々と逃げ出している。困ったことに、これからも日本に残っていて欲しい人材ほど、海外でも仕事ができる。これからの日本に必要なのは、海外でも仕事ができるような何らかのスキルを持った人間たちだ。公共心がどうのこうのとたわごとを並べるだけのバカは本当は要らない。

だいたい2000年くらいから2000年代後半までの話。その多くが2000年の初期の話。ある事件をきっかけに当時の中学生たちが全国で集団不登校を始める。そして、彼らはインターネット上で繋がる。この繋がり方がかなり今っぽい。ゆるやかにつながった中学生たちは日本を変えるために行動する。

日本を変えるため、とかいうと大層なことなんだけれど、動機は別に大きな正義心やら大義やらそういう類ではない。現状の社会システムのおかしさに気づきながらも、それを変えることも、訴えることすらもできない、そんな状態にうんざりしていたのだろう。交渉することさえできないのであれば、強行しかない。ちょうど、ナマムギという青年がそれができると世界に発信されたタイミングだった。そして、全然覚えてなかったんだけど、小説の中心人物である、ポンちゃんや中村くんは、私と同い年だ。

真実は、どんなに辛くても、受け入れなくてはならない。そして、真実が与える傷を癒すためには、膨大な時間と努力が必要だ。一度そういったことを経験すれば、真実に対処するときの訓練になる。真実と傷と癒しの関係が理解できるようになる。
ゆっくりと死んでる、幼なじみはそう言ったが、それは多くの日本人に共通の気分だったかも知れない。日本人にとって重要な何かが音を立てて崩れていくような不安感が一九九〇年代からずっと続いていたのだ。結局のところ、それは閉塞感だったとおれは思う。 何か得体の知れないものが日本と
いう殻を突き破って侵入しようとしている。それは百二十年前の鉄製の黒船と違って、自分の目で確かめることができない。

自分が中学生だったときを考える。自分の世界は狭かった。インターネットに興味を持つ暇すらなかったし、そんなのは世界の外側の出来事だった。家のパソコンがインターネットにつながったが、それは特に当時の自分が興味をひくものではなかった。それがこんなに世界を変えるようなものになるとは当時の自分は想像できなかっただろう。ただ、同世代をみると、当時インターネットにのめり込んだ人間もやはりいる。そんな彼らは今着々と世に出始めてきている。彼らはその時にすでにリアルにある程度辟易することができるくらい自由で、退屈で、恵まれていたんだろう。

何を言いたいのかよくわからなくなってしまうが、特にこの物語が描いた未来と、現実今の2020年付近を比較してみたい。

ポンちゃんたちの集団は、組織ではあるが、リーダーのような人物はいないし、組織の決まり事みたいなものもない。階層がないし、その組織には規律もないし、権利も義務もない。フラットな組織。つながりたいときにつながることができる。

この辺は、かなり今どき。ティール組織的な発想だし、この前何かの記事で読んだけど、暴走族なども最近はこういう組織の形になってきているらしい。誰が作ったわけでもない共通の目的意識があって、そのために勝手に自然に役割分担して、行動する。つまらない脚の引っ張り合いなんかは存在しない。そんなことを考える人はそもそもこの組織には入れないだろう。「共通の目的」がないと組織に入る意味がないんだから。

最後の方で出てくる通貨イクス。このあたりもリブラと発想が似ている気がする。まずは、地域からだという発想だが、ASUNAROがやろうとしているのは、グローバルでの展開。

小説の中である程度丁寧に解説してくれているが、独立した国家になるための要素がある程度ASUNAROには備わっている。この辺は結構面白い。

人から始まって、信用。お金。外部の協力者。政治。武力。エネルギー。人材育成。スマートシティ構想なんかもまさに今の時代にぴったりの構想。

当時村上龍が描いていた未来は、もちろん、そんなに外れているわけはなくて、ここで描いていた中学生たちの世代、ということは私世代なんだけど、彼らがこれからの日本再興を担っていくのだろう。もちろん、私もそのためにできることは何か、地道に信用と能力を築いていきながら、世の中の役に立つ人間になっていかなければならない。

中学生だけではなく、他人のことはわからない。もちろん自分のことさえわからないし、未来のこともわからない。わたしたちは、終戦直後と違って、そういったことがわからないということにやっと気づいたわけです。だからこそ知識や仮説や検証といったことが必要になってくるわけで、これは進歩だとわたしは思います」
非常に均一性の高い社会が長い間にわたって価値観の変化がなく継続している場合、そこでは閉塞化が起こりますよね。それでその社会は永遠に続いていくのだという都合のいい錯覚が起きますよね。変化というのは基本的に面倒なものですから、変化はあり得ない、と錯覚したほうが楽なわけです。そういう社会が行き着くところまで行くと、何が起こっても驚かなくなります。いやたとえ驚くようなことが発生してもとにかく変化はないのだというショックアブソーバーが働いていますからあらゆる事件はすぐに忘れられるし、社会は一見安定してしまうんです。

すでに、私は中学生ではなく、大人になってしまった。この小説に当てはめるのであれば、完全な大人だ。日本を閉塞感で満たしているのは他のでもない自分たちだ。誰かのせいにしたって、結局なにも変わらない。変わらないんじゃない、変えることができないんだ。これはただの能力不足でしかない。自分よりも優れた能力を有した人が出現すれば、能力が劣っている人は切り出される。これは当たり前の世界のかたち。

2020年から2030年の変化は、ここ半世紀くらいで一番大きな変化がぎゅっと濃縮される10年になるだろう。おそらく。そのことに気づいていない人も気づいている人も自分とは関係ないと思っている人もいると思う。

でも、間違いなく起こる変化を目の前にして、何もしなくていいのか。自分は幸せになれるのか。他人を幸せにできるのか。誰かのせいにしても意味なんかない。何かが起こったときに、国のせいにして、誰かのせいにして、それでいったい何がどう変わる。それで自分が救われるのか。そんな無意味なことをするくらいであれば、正々堂々立ち向かおう。そうやってしか、時代の変化には対応できない。時代を動かせる能力を有せるように努力する。そうやってでしか、人生っておもしろくならないんじゃないかな。

それは間違いなく恐怖の一種だった。しかし単純にポンちゃんたちの技術に対して畏怖したわけではない。確かに彼らの知識と情報と技術はおれたちの想像を超えているが、そのことだけで恐怖が発生しているわけではない。先端的な知識や情報や技術を自分が持っていないというのは確かに明らかな不安材料だ。それらが社会的に有用で、しかも自分には欠落していると自ら認めざるを得ないとき、決定的な遅れをとり誰か他人に搾取されるのではないかという不安と恐怖が生まれる。
それまではメディアが必死に隠していた格差が明らかになったのだ。これからの日本人の成功者はその栄光と富を日本人全体に還元したりしないということが明らかになった。いつの頃からかメディアは勝ち組と負け組という便利な言葉を使わなくなった。そういった言葉は勝者と敗者が曖昧な時代に
は有効だった。危機を煽ることができたし、まだ負け組が少なかった間は全体的なカタルシスとして機能した。
近代化のためという国民的なインセンティブがなくなって、日本人は庇護し庇護されるという関係性を放棄しようとしている。それは経済が要求することで、つまり不可逆な歴史であり現実だから、どんなに嘆いても昔に戻ることはできない。大前提的な庇護を失い、個人が個人として生きるようになるという概念をまだ日本人は持つことができないでいるが、共同体と個人の関係性だけはなし崩し的にすでに変わりつつある。誰かに何かをしてあげたい、誰かに何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、どれだけ普遍的で、切実なものかをこれから日本人は思い知るようになると思う

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