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【歴史の話】【#歴史小説が好き】司馬遼太郎の目を通して見る「勝海舟」

 みなさんは、勝海舟かつ かいしゅうと言えば、どのような印象をお持ちでしょうか?

  • 咸臨丸かんりんまるの艦長として太平洋を渡った優秀な蘭学者

  • 坂本竜馬さかもと りょうまに国際的な物の見方を教えた開明的な思想家

  • 西郷隆盛さいごう たかもりと会談して江戸の町を救った庶民の味方

ざっと、こんなところではないでしょうか?

 勝は維新後は赤坂氷川に隠棲して、「氷川清話」という回顧録が残っています。
 勝についての逸話は、つまり、勝自らが語った一方的な視点によるものが多いということも言えます。

 筆者はそこに、歴史小説として書かれたときの視点を加えると、また違った光景が見えるのではないかと考えます。

 幕末明治の歴史小説を多く書いた作家といえばもちろん、司馬遼太郎です。


優秀な蘭学者か?

 司馬は「胡蝶の夢」で、長崎海軍伝習所の中で勝が浮いていたように書いています。

 実は勝はオランダ語が得意ではなく、第一期生を卒業できずに「留年」して、第二期生の中に混じる。

 そのため、医学・海軍の秀才である松本良順まつもと りょうじゅん榎本釜次郎えのもと かまじろう(武揚)たちから、「勝さんは何のために長崎にいるのか?」と胡散臭く見られます。
 現代にたとえれば、大学院生より態度のデカい「大学八回生」のような立場。

 勝はそんなことは気にしないばかりか、第二期生の卒業実習となる咸臨丸での太平洋横断の艦長に(図々しく)立候補して就任しました。

 しかし実際は、咸臨丸の艦長としては能力不十分であり、オランダ海軍の顧問将官たちの力で航海に成功したようなものでした。

(咸臨丸)艦長の勝麟太郎は、のちに戦略家あるいは政略家として評価される人物であり、この変動期の機略家は海上よりも陸上における感覚のほうが油断のならぬところがあった。

司馬遼太郎「胡蝶の夢」第二巻

 それに対して榎本は、こう描かれます。

 オランダ人教師たちは榎本をうまれついての海軍軍人だとしてもっとも高く評価したが、すくなくともかれは技術を習得するうえで、めずらしいほどの天分があった。
 榎本における技術的才能は多様で、体を動かして物事をする技術から、機械の操作や道具をつかっての天文観測、あるいは操艦にいたるまでずば抜けて達者であった。

司馬遼太郎「胡蝶の夢」第二巻

開明的な思想家か?

 「翔ぶが如く」は、明治5年くらいから同10年の西南戦争に至る政情を描いた、ドキュメンタリー調の長編小説です。

 その作品で、維新後の勝について司馬はこう書いています。

 日本をどうすればよいか。

 ということを、(木戸孝允は)この時代きっての開明思想家である福沢(諭吉)にきくのである。
 いまひとり、この時代の指導的論客がいる。旧幕臣で新政府にも仕えた勝海舟であった。ところが木戸は勝をホラ吹きとみて好まず、
(略)
 要するに木戸が開明性の高い福沢を信頼し、西郷・大久保がより開明性の低い勝を信頼したということは、さまざまの角度からみて示唆するところが深い。

司馬遼太郎「翔ぶが如く」第二巻

 ここで言う開明性とは、のちの自由民権運動にもつながる、共和制の国家構想を木戸孝允が持っていたこと指しています。

 中央集権国家を目指した大久保利通とは長期的な方針では合わないが、短期的に明治政府の地盤を固める点では協力し合えたということになります。

 そして、西郷隆盛には、国家構想と言えるものが何もない。
 西郷は「(島津斉彬のような)仁君の徳を慕って、自然に賢者が集まってくる」と考え、「先輩が後輩を指導する薩摩藩の郷中(ごうちゅう)教育」が唯一の政治理念であり、(皮肉にも)「偉大な先輩である西郷のもとに不平士族たちが集まってしまった」と、司馬の筆が進みます。

 勝については、「目先の問題解決能力には長けているが、長期的なプランを立てる才能はない」と、司馬は考えていたようです。

(追記)
 別の司馬作品に、福沢が勝を批判するシーンがありました。実際にこのような発言があったかはともかく、司馬が考える両者の違いが分かります。

 福沢は幕府の攘夷方針を攻撃し、「品川の海になまこのようなお台場(砲台)を築いてあれで攘夷をするなどとは笑わせる。こんどもこんどで、勝麟太郎が兵庫まで行って七厘のようなまるい台場を築きゃがった。あんなもので外国と戦おうという料簡が間違っている。(略)幕府など、すぐさまにつぶしてしまえ」といった。

司馬遼太郎「峠」中巻 

庶民の味方か?

 同じく「翔ぶが如く」では、征韓論がいかに無謀だったかの背景として、諸外国の動向も描かれています。

征韓論

 余談ですが、筆者にとって歴代NHK大河ドラマの中で最も印象に残るシーンは、1990年度の「翔ぶが如く」の一幕でした。

 鹿賀丈史演じる大久保利通が、西田敏行演じる西郷隆盛と征韓論をめぐって対立し、「暴論でごわす!」と力強く反論する。とても迫力のある名シーンです。

 しかし、原作では大久保はそのような挑発的なことは言いません。
 「暴論」という表現は、木戸孝允の日記を引用する部分にのみ出てきます。具体的には、太政大臣三条実美さんじょう さねとみが心労で倒れた場面です。

 「無謀の暴論、朝廷内におこり・・・(三条の)困憂ついにここに至れるか」と、無念のおもいをこめて書いている。

司馬遼太郎「翔ぶが如く」第三巻

江戸無血開城

 話が逸れましたので、戻します。

 諸外国もやはり、日本の征韓論には反対でした。
 その背景として英国公使パークスの政治姿勢を説明した流れで、戊辰戦争で江戸が火の海にならなかったのは英国の意向があったからだと、司馬は謎解きをします。

 かれ(パークス)の関心は政情安定によってひきだされる貿易の利益のみにあり、このため薩長が慶喜の首を刎ねることも、また江戸を攻撃して大市街戦をおこすことにも反対であった。

 この時期の慶喜の代理人は旧幕臣勝海舟である。
 勝という男の凄味は、英国公使の肚の底まで知っていたことである。
 勝は慶喜を救うために英国公使を利用しようとした。
 かれはパークスの通訳官アーネスト・サトウと数回接触し、英国がおそれるところの内乱の可能性を強調し、
「(略)旧幕軍にあばれさせればどこもかも火の海になるだろう。もし官軍が慶喜を許すなら、われわれは江戸を無血開城する」といった。
 サトウからこれをきいたパークスはおどろき、
(略)
(西郷の部下の木梨精一郎に)もし江戸を攻撃するなら英仏は横浜防衛のために軍隊を出す、といった。

 以上が江戸城無血開城にいたる楽屋裏で、要するにあのとき西郷が、にわかに徳川慶喜を死罪にするという基本方針をすて、慶喜の代理人勝海舟と三田の薩摩屋敷で対面し、一転、江戸城の無血あけ渡しを決めたのは、パークスの恫喝が契機になっている。

司馬遼太郎「翔ぶが如く」第二巻

 要するに、勝の目的は「慶喜を救うこと」であり、江戸城の無血開城は(英国の支持を得るための)手段に過ぎなかった、というわけですね。

まとめ

 筆者は個人的に、司馬遼太郎はどうやら技術テクノロジーに関心が強かったのだろうと思います。

 科学技術に明るい島津斉彬しまづ なりあきら大村益次郎おおむら ますじろうらを好意的に書く一方、保守的な武士、たとえば島津久光しまづ ひさみつ乃木希典のぎ まれすけらを厳しく書くという傾向があります。
 勝は後者だった、という評価なのでしょう。

 それに対して、たとえば佐々木譲の武揚伝では完全に榎本の視点で書かれており、勝は徹底して「榎本の足を引っ張る人物」として描かれます。

 司馬史観には確かにバイアスはありますが、少なくとも「勝海舟は日本史にとって重要な人物だった」ことは否定しないので、なんとか公平さを保とうと努力していたように思います。


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