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映画『ブレードランナー』における「水の主題」

『ブレードランナー』(1982)は、酸性雨が降りしきるロサンゼルスを舞台とし、火星から逃亡して街に潜伏する人造人間を殺す任務を負うデッカードを主人公に据えた映画である。この映画の原作となった、フィリップ・K・ディックによるSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)では、人造人間はアンドロイドと呼称され、彼らは徹底的に「共感能力」に欠ける存在として描かれているが、一方で映画『ブレードランナー』では、人造人間はレプリカントという呼び名に改変され、キャラクター像もかなり人間らしさを持ったものとなっている。
以下に続く考察は、この映画におけるレプリカントの「人間らしさ」について、「水」の主題という観点に沿って論じていくものである。




映画の概要

はじめに映画のあらすじを軽くまとめておく。
人間と見分けのつかない精緻な構造、人間よりも屈強な身体、そして人間を超越せんばかりの知性を持った精巧な人造人間「レプリカント」(複製を意味する語)は、地球外での奴隷労働に従事していたが、やがて人類に反逆する者も現れ始めた。主人公のデッカードは地球に侵入したレプリカントを見つけ出して抹消する任務を請け負うブレードランナーであり、ストーリーは彼らのとの攻防を軸に進んでゆく。レプリカントに関して、製造後数年経つと人間と似た感情が徐々に芽生えたり、4年という寿命の制限があったり(侵入したレプリカントたちはこの制限を製造者に取り払わせるという目的を持っている)といった設定があり、自らを人間と思い込んでいたレプリカントが真実に気づいたり、寿命を目前にしたレプリカントが死の恐怖を通じて他者への共感を示したりといったシーンで、レプリカントの人間らしさが際立って描写されるのが特徴である。
前述のように、レプリカントの人間らしさは、原作小説におけるアンドロイドには見られなかった要素である(たとえば、アンドロイドには絶体絶命の窮地に陥ると抵抗を諦めるという特徴があり、これは非人間的要素として捉えられよう)。小説が人間とアンドロイドとの対比を通じて人間らしさという主題に向き合っているのに対して、映画ではむしろ、レプリカントという、どこまでも人間的な人ならざる存在を通じて、人間らしさという問題に肉薄していくのだ。


アメリカン・ドリームの方向転換

映画『ブレードランナー』はアメリカを舞台とするアメリカの映画だが、アメリカ文化の象徴として挙げられる「アメリカン・ドリーム」の精神の原点は西部開拓時代にある。捉えようによっては、西方への関心はベトナム戦争期まで続いたと考えることも不可能ではないだろう。(日本でも「51番目の州」などという言い回しが皮肉的に用いられることがある) 映画の舞台である2019年の未来のロサンゼルスにおいても、日本語や日本の広告が数多くフィーチャーされているが、これも関連性がないとは考えづらい。作品内では地球外にも都市が形成されているようだが、ベトナム戦争を以てアメリカン・ドリーム≒西方開拓精神の終焉が告げられたとするならば、あるいはその精神は垂直方向、つまり宙の彼方へと昇華されていったといえるかもしれない。原作小説が1968年、映画が1982年に公開されているという事実は、この説を補強しうるものだろう。


デッカードは人間か?

映画を観る限りでは、デッカードは基本的に「人間陣営」であり、本人も人間であるように見える。じっさい、レプリカントのロイはデッカードを救い出した後、デッカードに向かって「お前ら人間」と呼んでいる。しかし、監督のリドリー・スコットは「デッカードはレプリカント」だと公言しているのである。
デッカード=レプリカント説の根拠としては、ディレクターズ・カット版で追加された、デッカードが見るユニコーンの白昼夢のシーンが挙げられる。劇場版でも、アパートの玄関先でデッカードがユニコーンの折り紙を拾うシーンがあるが、それだけではガフ(折り紙が得意な刑事)が来ていたことしか伝わらない。しかし、白昼夢のシーンが挿入されたことで、ユニコーンというモチーフに新たな説明が生まれるのだ。つまり、デッカードは外部の人間に記憶を埋め込まれたレプリカントであり、デッカードの思考を知っていた(=彼がレイチェルの記憶を知っていたのと同様に、彼の白昼夢の源泉となる記憶を知っていた)ガフはあえてユニコーンの折り紙を残した、ということである。
この説の真偽は作中で明示されていない以上不明であるが、以降の論考では、デッカード=レプリカント説を採用して考察を進める。


「水」の主題

本作で頻出するモチーフが「水」である。屋外のシーンではほとんどの割合で雨や雪が降っているほか、屋内ではデッカードが何かを飲むシーンが強調されたり、透明なメスシリンダーのような容器で卵を茹でる様子が執拗に映し出されたりする。さらに、侵入したレプリカントの首領であるロイは男女問わずキスで唾液を交換しているほか、どのシーンでも不自然なほど汗をかいている(他のレプリカントについても必ず、涙や血を流すシーンが映されている)。終盤にロイが発する「そういう思い出もやがて消える 時が来れば―― 涙のように 雨のように…」という台詞は最も象徴的な例であろう。
これらの「水」のモチーフは、人間性を象徴するものではないだろうか。
人間の身体の約60%は水でできているといわれており、また地球が水の惑星でなければ生命の存在すら絶望的だろう。人間性の欠落を「血も涙もない」ということわざで表すことがあるが、(デッカード=レプリカント説に則ればなおさら)本作に登場するレプリカントたちは文字通りその真逆を行く、人間味にあふれたキャラクターとして描かれている。むしろ、作中で他者に対して機械的/非人間的な応対をしているのは人間の方ではないだろうか。デッカードが日本食屋台で注文する場面などの細かなシーンも含め、本作では人間の方が、ある意味融通の効かない存在として描かれているといえよう。
レプリカントたちが流す涙の表すものが、彼らの「人間味」の横溢だとすれば、涙と同様上から下へと落ちる雨もまた、西方ならぬ上方開拓精神のもと(そして寿命の短さという意味でも)宙へと向かうことを強いられる彼らの、消えゆく魂の叫びとして捉えることができるはずだ。前段で引用したロイの台詞は、この説を補強するものだといっていい。
レプリカントの方がむしろ人間的だという説を補強する要素は他にも、ゾーラが蛇を操っていた点なども挙げられよう。「人を誘惑して堕落させた蛇」などの台詞があることから、蛇のモチーフがミルトン『失楽園』を意識したものであることに疑いの余地はないが、人間を人間たらしめた『失楽園』のモチーフを、人造人間と人造蛇でなぞっている点は注目に値するといえる(この蛇が人工なのも皮肉が利いている)。
このように、本作で強調される「水」というモチーフは、レプリカントの人間以上の人間性を象徴するものだと考えられるのである。

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