湯村輝彦、またはヘタうまの帝王

日本のイラストレーションに決定的な影響を与え、イラストレーションのありかたそのものを更新した男、それが湯村輝彦さんです。

湯村さんが活動を始めたのは1970年代。矢吹伸彦さん、河村要助さんとともに結成した100%スタジオを経て、自身の事務所であるフラミンゴ・スタジオを設立。1980年代にはヘタうまブームを巻き起こします。デザイナーやイラストレーターの卵たちは、その自由さに大きな衝撃を受けました。

ヘタうま、すなわち、ヘタだけどうまい。

湯村さんのイラストは、破壊力抜群だけれども、よくよく見ると芸が細かいのです。

じっさい、ヒロ杉山さん、信藤三雄さん、伊藤桂司さん、根本敬さん、安斎肇さん、白根ゆたんぽさん、あるいは、いまをときめく五木田智央さんなど、湯村さんを心の師と仰ぐクリエイターは大勢いますし、若かりしころの日比野克彦さんや大竹伸朗さんも自作を見てもらったそうです。きっとみなさん、湯村さんの才能と人柄に惹かれたのでしょう。

湯村さん自身、もともと絵を描くのが好きな少年だったそうですが、青山学院高等部に通っていたのですから、エスカレーター式に大学へ進学という選択肢もあったはず。けれども遊びに夢中で、渋谷のジャズ喫茶に出入りしているうちに、グラフィックデザイナーをめざすようになる。

ちなみに、いまでいうイラストレーターは、その時期、挿絵画家などと呼ばれており、当時、活躍していた和田誠さんや宇野亞喜良さんの肩書きもグラフィックデザイナーでした(絵も描けるグラフィックデザイナーが多かったのです)。

和田さんや宇野さん、山口はるみさんや横尾忠則さんといった面々が、東京イラストレーターズ・クラブを設立するのは1965年のこと。以降、イラストレーターという職業は社会的に認知されるようになり、グラフィックデザイナーとおなじく、時代の花形となります。

さて、美大卒業後に入ったデザイン事務所を、湯村さんはたったの3か月で辞めてしまいます。「毎日、通勤電車に乗るのがイヤだったから」というのが理由で、この時点で大物の片鱗がうかがえますね。イラストの仕事を回してもらううちに、斬新な作風が注目を集め、東京イラストレーターズ・クラブ新人賞を受賞。その後、先述したように、100%スタジオを結成し、仕事もうなぎのぼりに増えていきます。

1979年、玄光社が専門誌「イラストレーション」を創刊。湯村さんは創刊準備号からアドバイザーとして参加するとともに、毎回ひとりの審査員が、独断で新人賞を決定する「ザ・チョイス」のコンセプトを提案しました。これがイラストレーターの登竜門となったことはよく知られていますが、最初にレールを敷いたのは湯村さんだったのです。

1980年代に入ると、湯村さんの才能は黒光りする男根よろしく、ビンビンに怒張し、さまざまな媒体で爆発します。そう、ヘタうまブームの到来です。

サブカルチャー方面では「ガロ」(青林堂)の表紙や、糸井重里さんとの共作マンガ『情熱のペンギンごはん』(情報センター出版局)で衝撃を与え、メジャー方面では矢野顕子さんの大ヒットアルバム『ただいま。』や「オロナミンC」の広告によって、お茶の間レベルで愛されることになる。八面六臂の活躍です。

湯村さんの作品にはまったく迷いがありません。ありあまるパワーとほとばしるエネルギーは、どこからきているのでしょう。あるインタビューでこんなふうに語っていました。

「油断するとさ、うまくなっちゃうんだよね。それはマズいから、一生懸命、うまくならないように努力あるのみ(笑)。そのためには体力と気力が必要なのね。毎日、早寝早起き。腕立てと腹筋運動は日課になってる。事務所の掃除をするのも好きだね。ピカピカの仕事場で、ヘタうまな絵を描いてるの。そういう方が面白いでしょ」

健全な精神は健全な肉体に宿る、ではなく、ヘタうまの精神は健全な生活に宿る、ということなのかもしれません。おもえば、湯村さんが尊敬するマンガ家の杉浦茂さんも、死ぬまで現役をつらぬき、摩訶不思議なマンガを描きつづけた偉人でした。おなじく湯村さんも、つねに現在進行形。作風が色あせることなどありません。


◎湯村輝彦:1942年東京生まれ。イラストレーター。デザイン事務所「フラミンゴスタジオ」代表。ヘタうまのオリジネイターにしてキング。生粋のR&Bフリークとしても知られる。テリー・ジョンスンの別名あり。

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