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空を見て問う 24/05/08

浴室の窓を空け、湯船に浸かって読書をしていると、チュンチュンという鳥の声が聞こえる。声が聞こえるだけで、姿は見えない。けれども、角度的に微かに空は見える。見える空の色は青色である。今朝は雲が多かった。それがこんな青色になったのだから、一日の中で何かが変わったという事を嫌でも感じる。ただ変わっていっているのか、進んでいっているのか、滅んでいっているのか、私には検討が付かないが、そんな不気味な世界の中でポツンと生きているという己が、やけに寂しい存在なように思えてならない。ただただ私と空しか無いようなこの空間に、チュンチュンという声とそよ風の音が聞こえる。全てが纏まっているようで、それはまた、閉ざされているようでもある。私は一体どこに居て、何処へ向えばよいのだろう。

午前中にちょっとしたオンライン会議があっただけで特別何か用事がある日ではないので、散歩にでも行けばよかったような気もするが、どうも積極的に何かをしようという気にならず、ただただ文学に触れるという、呑気な時間の使い方をしている。藻掻いている生き物というより、藻掻き疲れた生き物である。こうして、外へも行かず、何かを生み出す事も無く、ただ空を眺めているだけで、何故疲れるのだろうか。息をするという事がそれ程疲れるのだろうか。藻掻き疲れた生き物は、最早疲れを自覚するという気付きだけで尚疲れるのである。どうせ今日ももう数時間したら「文学」ではなく「ウイスキイ」になるだろう。私はとある宗教者であるが、真の宗教者には遂になれないかもしれない。宗教者と言えば格好付けで、実態はただのニヒリストであろう。障害物の隙間から見えるこの涼しげな空を眺めては何かを問うという、ただそれだけを延々と続けているような気がする。

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