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1997年エヴァに取り込まれた中3の夏。

2021年。シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇が公開され、旧アニメ版の放送から二十五年の歳月を経て物語に終止符が打たれた。

エヴァの最終話(25話、26話)は、旧アニメ版、旧劇版、シンエヴァと存在するわけだが、
私の成長過程でいつも傍にいたのは、なんといっても旧劇版だ。

―――――

壊滅的に破壊され水没する街。
朽ち果てた電柱から避雷器が外れ落ち、
空虚な音をたてて静かに水紋が広がる。

物語のはじめから世の終末を感じさせる退廃的な世界に、
中学三年の夏、私は沈み込んでいった。

ラストシーンでは、
シンジがアスカの首を絞め、
アスカがシンジの頬をさすり、
シンジが嗚咽を漏らす。
そして物語は『終焉』の文字。

―――――

最初から最後まで暗かった。

その解釈は難解で、
残念ながら観衆の誰一人として浮かばれることなく、
エヴァの中に取り込まれたまま会場を後にした。

まだ自分との向き合い方も知らない子供だったが、
心の中にある影のような暗いなにかの存在に
薄々気づきはじめた頃だった。

それが中学三年の夏、エヴァに取り込まれた私は、
その影の正体をはっきりと認識してしまったのだ。

人と関わり方がわからなかった。
だからいつも他人が怖かった。
支配してくる母親を頭から消したかった。
でも家を出て生きてく方法などわからなかった。
どうにもできず、もがいていた。
苦しかった。

生まれてきたくなかったなぁ。
そうすれば楽だったのに。

これが影の正体だった。
エヴァの荒廃した世界に、
自分の影を投影していた。


高校生になり、大学生になり、社会人となって
少しずつ少しずつ、処世術を覚えていった。
少しずつ少しずつ、影も薄くなっていった。

自分が苦手なものがわかってきて、
対処法がわかってきて、
克服できないことはスルーしたり諦めたりすることを覚え、
だんだん図太くなって、
今に至る。


きっと物語の解釈に、正解はない。
他人が怖い庵野秀明が投影されているだけだ。
碇シンジの決断は一つの可能性にすぎない。
エヴァの中に取り込まれた人の数だけ向き合い方がある。

今でもあの夏、エヴァに取り込まれた少女が、
時々顔を出したり引っ込めたりする。
古傷のように、
普段は忘れているけど、調子が悪いと少し痛む。
確かに私の中に居続けている。

きっと誰の中にも
他人を拒絶したい心と
受け入れたい心が共存し続けるのだと思う。
大人になるにつれて拒絶の影は薄れていくけど、
完全に消えることはない。

だけど今は生きる術を持っている。
他人を受け入れる喜びを知っている。
生きてることがまあまあ楽しい。
毎日少しだけ、幸せだ。


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