自分の信念を吟味させられる機会は、なかなかに少ない。

自分が持っている特筆すべきスキルといえば、文章を書くことくらいしかない。

しかも、下手の横好きで、書けば書くほど自分の文のまずさが身に染みてくる。

そんな身の上ながら、人の文章を読ませていただいては「これはだめ」「ああがいい」などと横やりを入れなければならない役目を仰せつかっている。

究極的には「これはだめなんだ」と否応なしに言って、その理由は先方がこれから体験を積み重ねることによって段々に自覚される、というのもありだし、それも現象としてはよくあることなんだろう。

しかし、それでは「何がだめなのか」、今理解できていない先方に釈然としない感が残って、即座の修正反映に支障を来すこともあるだろうし、「それは単に個人の趣味だ」などと言われる可能性だってある。

だからこそ、この判断には目的と原則があって、それは世の中である一定以上の賛同を得ているのだ、ということを示すためにも、根拠と理由を示すことがやはり必要だと思って、できるだけそのようにしている。

以上を前提として。まだこの世に存在していない文章を今から書いてもらうというのは、すでにある文章を読んで、それに横やりを入れるということ以上に大変だ。

「文章力は、それまでの読書量にほぼ比例する」なんてよく言われるが、それはあったりまえの話であって。

「教えること全般」に慣れていない状況を考える。豊富な経験によって、いつの間にか評価基準や様々な手法が自然に身についた人間などは、「自分の常識」は「全員の常識」であって、「自分の能力」は能力でもなんでもなく、誰にでもできることだなどと思っている。もちろん、「自分の常識」が本当に妥当なものか、意識的な吟味もされることもない。

そんな状態の人が指導する側に立つと、その指導に適応できる、同様に経験が豊富な人だけがなんとなくいい成果を残し、そうでない人はわけもわからず脱落する、ということになってしまうだろう。

「どのような条件下にある人にも成長してもらう」「全体のレベルを底上げする」という観点でも、「できるだけ多くの人に楽しく、有意義に学んでもらう」という観点でも、それはアウトになる。

そんなことを思っていたときに手に取ったのが、リーパーすみ子『アメリカの小学校に学ぶ英語の書き方』(コスモピア、2011年)。英語表現をどう鍛えるかの参考になる以上に、作文教育の方法論やあり方について考えさせられる本だ。

かいつまんでまとめれば、ビジネス書で一世を風靡したマインドマップやら9マスの図などで、文章の構成をきちんを考えさせ、書かせて、吟味・編集を多人数で行うことまで小学校の作文教育で行われているということだ。

1年生から発散型のマップで文章を構想させる。新聞記事の構成の典型例と言われる逆三角形(インバーテッド・トライアングル)の考えは4年生で出てきて、しかも各段落ごとに単純なマップも書いてもらう。いったん書いた草稿は、自分で見直し、児童同士のグループで読み合って批評し合って、編集してから先生が最後に講評する。

こうした各段階で具体的な作業に落とし込まれた構想、執筆、編集、発表の過程によって、「いったい、何がポイントなのか」が示され、「文を書く営みとはどんなものか」という感覚がより効果的に児童たちに染み渡っていくのだろう。

あかん。こんな教育受けている方々に敵うわけない。おそらく日本では、文学の同人グループか、大学の研究室か、大人になってから高いゼニを払って入る編集教室でしかたいてい見られないような教育を、やる地域では公共の初等教育でやっているわけだ。

以前読んだ、北川達夫他『図解 フィンランド・メソッド入門』(経済界、2005年)を再読したときも、同様の思いを強くした。フィンランドでも、初等教育から「アヤトゥス・カルタ」(カルタ)と呼ばれるマインドマップを3、4年生で徹底的に書かせて、自己紹介の表現構想、物語の分析、主張の深化などをさせ、時にはひとりで書くのではなく、多人数でひとつのマップを書くこともあるという。

また、意見や感想には必ず理由をつけること(なるべく3つ!)も徹底され、班で共同制作した作文については「いいところ」「わるいところ」を10ずつ挙げることで相互批評する。「どうして?」と理由や根拠をそこまでも突き詰めるだけでなく、議論をするときは議論の「ルール違反」についても指摘されて、円滑なファシリテーションが志向される。

こうした教育についても敵わねぇなあ、とどうしても思ってしまう。

文章の話に始まって、表現一般の話にまで広がってしまった。思考と表現は上手だろうが下手だろうが、意識的だろうが、そうでなかろうが、いつの間にか毎日やっていることであり、多くの場合、それをいちいち吟味する機会、問題を突きつけられる局面というのはそうそう起こらないのがほとんどではなかろうか。

しかし、なかなかないとはいえ、それは必ず降りかかってきて、そこでの対応がうまかろうが、まずかろうが、何かの結論と結果を残しながら、やり過ごしてしまう。そして、同様の機会がまた起こる。

子どもだけでなく、あらゆる世代において、上の本のような思考と表現の研鑽の場が、もっとたくさんの地域にあってほしい。そして、そう思うなら、自分でも個人的に状況を事細かに観察し、思考と表現を磨きつつ、そういう場をつくっていく努力をしていかなければならないと思う。

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