見出し画像

卵子を排除できない私の愛についてーー川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

朝方、下腹部の痛みで目が醒めた。
昨晩から私の体を漂う、この予感には慣れているけれど、現存する感覚には全く慣れなくてうまく信じてあげることができなくて切ない。
恐る恐るトイレに行ってズボンを下げてみると予感は的中して感覚は真で、今月も無事、子宮の内壁がお務めをはたしましたよと語りかけてくる。

ハロー、月経、さようなら未受精卵たち。
今月はちょっと早いね、とか思いながら痛み止めを飲んで布団に倒れる。

眠気、気だるさ、下腹部の痛み、下半身にまとわりつく違和、各種不快感がそろい踏みで眠れぬ朝に、「紛れもなく今日、これを書かなくては」となんとなく思う。運命じみさせた最悪の演出だけど。

・・・・・

と、いうわけで、第一回の書評の対象作品は川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』です(余談だけど、祇園四条に「と、いうわけで。」と言うラブホがあって、そのせいで、私はこの言葉が無性に好き)。

中には、この著者を選択することに対して「うっへぇ」なぞと思われた方もいるかもしれぬ(いないかもしれないけれど)。少なくとも、川上未映子について語る時、どうしてもそういう類のことがついてまわるのだ。

そこで、最初にことわっておかなくてはならないのは、私は川上未映子が好きだ。大好きだ。それも彼女の著作が好きなのか、それとも川上未映子それ自身が好きなのか、区別がつかないくらいに。つまりこのことは、私がその辺にいる女の子(図々しいけど、私は女の子だ)で、年相応に頭がイかれているということを示している(「うっへぇ」が「オエッ」に変わったかも)。

その上で、『ウィステリアと三人の女たち』はすごかった。それは、もう、すごく。

私の中で、『ヘヴン』までの川上未映子は言葉の人だった。彼女の放つ言葉は、私においての小説というものを変えてしまった。けれど、『すべて真夜中の恋人たち』は、なんかいい流れやったなぁという曖昧な感想で、それ以降、彼女の作品はリズム感の心地よさはあるものの、私に言葉を植え付けてこなかった(きっと意図してのことなんだろうけど)。

そうして切り離せない彼女への「好き」と、リズム感目当てで本作を読んだところ、私は突如としてぶん殴られた。

言葉が、もどってきている。しかも、これまでにないシンプルさで、リアリティをともなって。

・・・・・

🌾以降、この本と、ブラックミラーのネタバレがあります。

・・・・・

ページを開き、最初の二つの短編で出会うのは、私たちのいる現実に近い世界を生きる女たちだ。そして、この女たちがまた、最高に最低で、最悪にいけ好かないのだ。

1つ目の短編「彼女と彼女の記憶について」に登場する斜陽感漂う女優の「わたし」はとにかく人を見下してる。この女は、どうやら「顔も覚えていない」、「会いたい人なんてひとりもいない」田舎町の同窓会に突然参加して、「バレンシアガの黒ジャケット」に「マノロのヒール」に身を包む事で同級生たちに「何かを圧倒的にわからせる」らしい。
2つ目の短編である「シャンデリア」に登場するのは、偶発的に得た大金によって、日がな一日デパートをフラフラする「わたし」だ。「わたし」は、デパートに行く趣味を知人に馬鹿にされると嘆きながらも家族や、仕事に生きる彼らの日常を皮肉に描写する程度の余裕はありそうだ。

この「わたし」たちはヒエラルキー高めの嫌な女で、間違いなく私は彼女たちが見下す同級生や知人側にいるのに、私は彼女たちを憎めないばかりか、なぜだか彼女たちの気持ちをわかることができる。

久しぶりに見るさして仲良くもない同級生を観察する冷めた目とか、最大限の美容や整形、画像加工を施した美しい女の子たちのツイッターアカウントをつい眺めてしまうあの感じとか。
彼女たちの視線や感覚、差別や見下し、そして何より寂しさと孤独が、あまりにもリアルに、そしてすんなり、私の中に言葉として入ってくるものだから、私は彼女たちと私がぐちゃぐちゃに混ざって行くのを感じる。

物語が進む中で、彼女たちは餓死した同級生や、自死に近い事故死をした母親といった“今は亡きもの”たちにじわじわと追い詰められていく。いささか異常なそれらの出来事をしかし彼女たちがどこか冷静に客観的に観察しているせいで今、自分が物語の中にいるのか外にいるのかすら曖昧になって行くような感覚に陥っていく。

しかし、3つ目の短編「マリーの愛の証明」に入ると、突然異国の少女たちが暮らす自然の保護施設、という日常とは縁遠い世界に運ばれた。戸惑いながら読み進めて行くのだけど、私は主人公のマリーのことがめっきりわからない。

私はマリーと同じ揺らぎやすい愛や死生観を抱いた少女だったのに、マリーのめまぐるしい気持ちの変化についていけない。
死はいつだって私のそばにいて、愛について完璧にわかっていると思っていたのに何にもわかっていなかったあの頃のことを、けれど私は理解できない。

ごめんね、マリー。少女の頃は、少女に気持ちをわかる大人になろうと、あんなにも強く願っていたのにな。

けれど、この作品は私に私が失ってしまった少女時代を嘆く間を与えてくれない。
最後に現れ、中編となる表題作では、外資系製薬会社に勤める夫と暮らす専業主婦の「わたし」が語り手となる。自然にできると思っていた子供に恵まれず、夫との会話もなく、時間とお金に困らなくても満たされない「わたし」。現代におけるありふれた悲劇を抱えた彼女の姿は、読者を一瞬にして現実に引き戻す。

しかし、彼女は悲劇のヒロインのままではおさまらない。近所で出くわした髪の長い女に導かれるように、彼女は自宅向かいにある、以前は老女が住んでいた取り壊し中の空き家に侵入するのだ。
そして、その空き家の中で、夢とも幻想とも知れない老女の過去に引き込まれていく。

老女はこの家で同性の外国語教師とともに英語教室を開き、外国語教師にウィステリアと名付けられる。二人は順調に教室を経営し、その中で、ウィステリアは徐々に外国語教師に惹かれていく。しかし、ある春、外国語教師は遠い母国へと帰っていった。帰る直前、彼女がウィステリアに語ったのは、若かりし頃、生まれてすぐの赤ん坊を亡くした経験だった。

きっと教養のある人は、ここでヴァージニア・ウルフの話をするのだろうけど、不教養な私は、この物語にお気に入りのあるドラマを重ねた。

それが、ダークで風刺的なSFアンソロジー『ブラック・ミラー』シーズン3の「サン・ジュニペロ」だ。

「サン・ジュニペロ」では、奥手なメガネの女の子・ヨーキーが快活で魅力的なモテる女・ケリーに惹かれていく。しかし、物語が進むごとに、この世界は仮想世界「サン・ジュニペロ」であり、彼女たちはそれぞれ現実世界では老齢で互いに何らかの問題を抱えているらしいということが明らかになる。
ヨーキーは21歳にして事故で全身不随になり、今後、サン・ジュニペロへ完全に人格をアップロードすることを望んでいる。そして、アップロードを保証してくれる書類上の家族を得るために、介護士との結婚を計画している。一方のケリーは余命宣告を受けており、先に亡くした娘と夫とともに墓に入るため、サン・ジュニペロにおいては短期滞在予定者だった。
彼女たちは、互いに惹かれ合うもそれぞれの過去が彼女たちの関係を蝕み、亡くした家族への忠誠心からケリーはヨーキーを避けるようになる。

この二つの物語において、その中心には「現実ではない世界での、老女の恋」があり、どちらにも、「今は亡き子供」の存在がつきまとう。
彼女たちは現実において肉体的に結ばれないまま、甘やかで濃密な時間を過ごす。しかし、結末は全く異なる方向へと向かっていく。

「ウィステリアと三人の女たち」では、外国語教師の帰国後、ウィステリアは彼女と自分の赤ん坊のすがたを見る。それから数年経過しウィステリアは決意を込めて彼女に手紙を送った。しかし、返事はなく、その後彼女の同僚から、彼女はもう既にこの世の人ではなくなっていたことを知らされる。そして、彼女自身も年老いて行き、死の間際、ウィステリアが自分と彼女の赤ん坊という、存在しえぬものを見たことが、外国語教師の赤ん坊を殺したのだと悟る。しかし、その罪に対し、どこからか降り注ぐ救いの声を聞きながら、ウィステリアは永遠の眠りにつく。

一方の「サン・ジュニペロ」では、自身の死の予感を察知したケリーが現実世界でヨーキーに会いに行き、結婚を申し込む。ヨーキーは快諾し、晴れて家族となったケリーがヨーキーの人格をサン・ジュニペロへアップロードするための書類にサインする。完全にサン・ジュニペロの住人となったヨーキーはケリーもサン・ジュニペロの住人になるよう誘う。しかし、娘や夫の存在を軽視するようなヨーキーの発言にケリーは激怒し、二人は一時決別する。だが、結局死を目の前にケリーは心変わりし、サン・ジュニペロの住人として、ヨーキーと半永久的な人生を歩むことを決意する。

異なる結末へ導かれるこの両作品は、しかし、共に子供を不在とする永遠の愛を私に迫る。
お腹に卵子として存在する小さな予感、あるいは現存する愛すべき娘の存在を取り払った時、私は誰かを永遠に愛することができるのだろうか?
そして、愛する誰かの姿は今の夫と重なるのだろうか?
この問いが生じさせる胸苦しさを、私は棄却できないでいる。

だからこそ、老女、ウィステリアの過去の罪とその許しを通し、「わたし」は一気に「変身」する。

「おまえ、誰なんだよ」、夫はもう「わたし」を認識できない。

・・・・・

この本を買うとき、帯に「人生のエピファニーを鮮やかに掬い上げる著者の最高傑作」なんて書いてあって、それを読んで「そもそもエピファニーって何やねん」とか、「こういう最高傑作って大抵、最高傑作じゃないんよな」とか考えていた頃の私はもうそこにはいなくて、この作品は完膚なきまでに川上未映子の最高傑作だ。

死んで今はいない人の存在を匂わせながら、男不在の状態で語られる女たちの孤独や寂しさは全編を通し一貫しており、これら4つの作品を切っても切り離せないものにしている。物語ひとつひとつも、その順番も変えようのないほど完璧だ。

初期の川上未映子の言葉たちが、洗練されて、これ以上ないくらいの高純度で現前する今を私は結局呆然と受け止めるしかないのだ。
以前インタビューで、彼女が「死ぬまで書き続けたい」と言っていたのをふと思い出す。こんな作品を作ってしまって、これから彼女はどこに行くんだろう。

語りえぬものに沈黙することしかできない私をどうか許してください。誰か。

でも、やっぱりこれだけは。

私は、
未映子にゆうたりたい。
私、あなたの作品好きよ。大好き。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

最後まで読んでくださってありがとうございます。いただいたサポートは、メディア運営費にまわさせていただきます。 快い一日をお過ごしくださいね。