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観音経の読経3週間目

観音経の読経を初めて
3週間目にはいりました。

下手ながら、音読してきて
感じたことが色々とあります。

観音経、素人ながら何度も音読していると、
何か特別な力があるように
思えてきました。

もっとも大きなことは、
気持ちの乱れを瞬時に
整えてくれることです。

モヤモヤしてきたときは、
観音経で一気に消えます。

先日、後から思えば、
結構な嫌味を人に言われました。

ですが、なぜかその時は
全く気にならない、

何か遠くにいる犬の遠吠えのような
音に感じました。

聞こえるけど、聞き流している状態です。

犬の遠吠えみたいに聞こえたから、

まに受けることがない。
気にならないわけです。

となると、相手も別に悪気があって言ったわけではない、とその瞬間は無意識に

こちらは思えたし、
相手も何も気にしていない感じです。

その時は、朝と昼に般若心経と観音経を
読経していました。

特に気分が良い日でもなく、普通の日だったので、今思えば不思議です。


読経は何か内側から熱くなる、
ホッとするような気持ちが
数時間は続くようです。


とは言っても、別に特別な修行をしたり、
聖人のようなわけでもありません。

腹立たしく思ってしまうことはあります。

そして、不思議なことに、夕方になると、
先程のことも矛盾したこと、

腑に落ちないことを言われていたと
思い出す。

忘れていた腹立たしさが
蘇ってくるようです。

どうやら、読経による気持ちの
乱れの整えは
犬の遠吠えのように、嫌味を
変化させる力のようです。

そしてどうやら、数時間は
続くように感じました。
でも数時間だけです。

そして、夜にまた読経をすると、
何と、また気持ちがすーっと
晴れていくわけです。

あの言い方はおかしいんじゃないのか、
前に言ったことと矛盾している、

そんなちょっとした対抗心のようなものは
ついさっきまで思っていたのに、

夜の読経でまた気持ちが
軽くなるわけです。


もちろん、読経は吸うよりも
吐く息が長い状態になるので、
呼吸とも関連しているのは確かです。

深呼吸で落ち着いているとも
言える面はあると思います。

ですが、呼吸以外、目で長い観音経の
文字を追っていると、

どうも気持ちの乱れを正してくれる、
消すか、中和して
くれるように思います。

目で追って読んでいる、
そして何か感じる、

文字に何かあるようです。


こんな感じです。モヤっとするけど、どこか温かくなる。
読経と自然に触れることは、共通点があるように感じます。


今は、観音経は一日に3回をめどに
読むようにしています。

本当は、もっと回数を
重ねたいところですが、
観音経は般若心経と比べると
長いんです。

ただ、決してお坊さんなどの、
特別な人が読むだけの
ものではないようです。

昭和初期では、
日常的に朝晩、観音経の読経が
あちこちの家庭から聞こえていたそうです。

最近は出会うことは少なくなりましたが、
明治や大正、昭和初期の生まれの人は、何か芯がある、美しさのような
ものを以前からよく感じていました。

おそらく、読経か、
何か今では失われていたような

道徳観か、生き様のようなものがあるから、
人柄にも滲み出ていたのだと思います。

観音経は、はじめはとても難しいと
思ったのですが、

ふりがなを見ながら読めば、
意外にもスラスラと読めるようになりした。

日本人には、きっと
読みやすいものだと思います。

いつしか、読経する人は少なくなっていったのかもしれません。

何か宗教を信仰しているわけでもなく、
僧侶でもない私が読経について語るのは、おかしなことですし、

そもそも語れません。

実は、以前に音楽療法の本を
読んでいたのですが、

その中で、効率重視の中、教会での讃美歌か
何かの歌の習慣をやめたことがあるそうです。

その後、教会の人が原因不明の
精神病かノイローゼになったらしい。

また讃美歌をやり始めると、ノイローゼは無くなったそうです。

何かを読む、歌う、ことが生活にあれば
いろいろと恩恵があるらしいですね。


日本人には、きっと読経が
いいように感じていますが、

まぁそう普段からする人は
少ないと思います。

私の場合、がん患者には一日30回の
般若心経の読経をするといい、

という話を
何年か前に知ることがありました。

その後、何度も本で出会う。

四人に一人は癌で死ぬから、
がん保険などという、
あり方に疑問を持っていました。

野良猫も抱えているし、
ガンになるわけには
いかない、

またいい体験証明にもなるだろうと思って、
般若心経は続けてきました。

2年くらい経って気がついたのは、
読経で呼吸の力が
グッと強くなったことです。

20代の頃よりも、体力、
いや呼吸の力がついたから、
体が軽い。よく眠れる。

般若心経の読経に引き込まれ、
上手い下手は別にして、
読経生活が続いてきました。

仏教もろくに分かってないのに、
何を、って言われても
おかしくはないのですが、

きっと昭和初期など昔は
何か日本独自のこと、
強さの秘訣のような習慣が
あったと以前から思っていました。

薬草も民間療法も
多くは消えました。

麻も消されたものの一つですね。

読経も消えてきたのではなかろうか、
と今は思っています。

観音経、難しくて長い感じは
最初こそあったのですが、

文はとても読みやすく、
何か優しさを感じました。


何となくですが、気持ちの乱れを整えてくれるのもありますが、

謙虚になれそうな、生き方を
導いてくれるような
印象です。

例えば、つい得をしたい、損をしたくない、って思うことがありました。

スーパーで何か買い物するときは、
賞味期限の短いものをあえて選ぶ、

少し、痛んでそうな野菜をあえて選ぶ、
などした方が、お店の人は助かるわけです。

通販で買い物したら、
仮に多少のトラブルがあったとしても

非常に良い評価をつける、
何かあっても、穏便な解決をする、

といったちょっと相手に
優しくなれるような、
気持ちにしてくれるようですね。

先日、Amazonで、写真を読み取るアダプターを買ったのですが、

どうやらスマートフォンとは相性が悪かった。
でも、他では動いたので、まぁ、安いし、いいかな。

ケチって純正品を買わなかった
自分が悪いだけ、
って思うだけでした。

ショップに悪い評価をつける気は
全く起きません。

また、信念や正義感は、誘惑があれば、多くの人は負けてしまいます。

現に、明らかにおかしいことが、
今は起こっています。

まるで、魂か信念を悪魔に
売ってしまったかのように見えます。

分かっているけど、研究費を
出してもらえるような、

要は地位名誉と金銭のような誘惑に
優秀な人も多くは負けてしまうわけです。

ですが、観音経のような、
習慣が根付いていれば、

信念や正義感が誘惑に負けないように
働いてくれそうな気がします。

死んだら、閻魔大王の前で全ての悪い行いは
鏡ように映し出される、隠しようがない、って思うのですが、

まぁ、今すぐ得することに目が向いてしまうのが多いのが現状。

道徳心、何か信念を持つ、でも曇るから、
日々の何か、読経のようなものでも何でもいいのですが、
磨いていくことが必要じゃないかな、
って思います。

最初は澄んでいても、誘惑や楽したい、
せこい気持ちで
曇ってくるわけです。

澄んだきれいな色です。
ストレートな感情の生き物ですが、
どこか観音経に通じるところが
ありそうに見えます。



自然の色に触れておくのも良さそうですね。


わけのわからなことを書き綴ってますが、
観音経の良さが、これから徐々にわかってくるかもしれません。

ただ、一日たったの
2、3回で少ないですが、
般若心経と共に続けていくしか
ないですね。

何年かしたら、何か気がつくかも
しれません。

きっと文字に秘められたものが
何かあるはずです。

観音経もこれだけ長く
受け継がれてきたわけです。

読めば、
今は何もわからずとも、徐々にいつか、
いや、わからなくても
いいのかもしれません。



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