見出し画像

『ふと猫さんが通る』四話。

 ハッハッハッハッ。息を吐き切って酸素吸入度を上げる。リズムは一定。とにかく駆ける。けれど、我を失ってはいけない。

 思えば来る日も走り続けた。畦道。何も無い道。何となくそれとなく自己ベストを目指して走る。青々とした田園。遮蔽されることなく降り注ぐ陽光。光を浴びて我を忘れて走った。ただただ。ひたすらに。頭はやられてしんどくなった。その度にその日を思い描く。昨年は入賞もままならなかった。悔しさ。今年は更に暑くなるだろう。アスファルトが熱気でゆらめくのが目に写る。心地いい程の地獄と栄光の道。孤独だ。脱水症状で足が絡れかけた時、横を抜き去るランナーの顔が目に浮かぶ。笑ってやがる。奥歯に自然と力が入り、白昼夢に浸って茹で上がった脳は自己を取り戻し大地をグッと足先で掴む。離すまいと。我を取り戻すんだと。

「負けたくない」
「何に?」
 隣の走者が私に問いかける。
「誰にも。自分にだって負けたくない」
「具体性が微塵もないな」
「それでいいんだ」
「良い訳がないだろう。そんな事したらただ苦しむだけだ。諦めも苦しみも言葉にしてしまえ」
「嫌だ。それだと終わってしまう」
「駄々捏ねるなよ。先は詰まってるんだ。お前の嫌々のせいで下位に落ちてたまるものか」
 片側を走るもう一人が私を詰める。
「お前に嫌われたっていい。矛盾していてもいい。蔑まれようと嘲笑されようと走るんだ」
「どうしてそこまでする必要がある」
「普遍だ。私を鼓舞するのは普遍だ。何時如何なる時代であろうと人々を取り巻いてきた普遍が私を地面に括り付けるんだ」
「欺瞞だよ」
「欺瞞だとしても走る。ただ走る。そうすれば答えが出る。右だろうと左だろうと走らなければ答えは出ない。死に向かってだって走ってやるんだ」
「愚かな弱者め」
「サタンの様に蔑み誘惑するのは勝手だが私は決して屈しない。歪まない。私は私を鼓舞し続けただ走るだけだ。其処に意味などない」
「そうしたって自己を極める事が出来るわけじゃないだろう」
「勝手に盛り上がって縮む道端の糞と同じだ」
「だろうが構わない。お前が俺より速かろうが構わない。踏み締めてやる。一歩一歩。確実に。苦しもうが構わない。確実に。絶対は無いんだ。この世に絶対はない。走る事でそれが明らかになる。ならば走るまでだ」
「やめてしまえそんな愚かな事」
「その一言が鼓舞になる」
「馬鹿げた行為行動は命取りになるぞ」
「その言葉が私を地面に釘付けにする」
「やっても無駄だ。お前は速くない」
「遅いんだ。理解しろ」
「その言葉が俺を走らせるんだ。確実に一歩一歩。踏み締め跳躍させるんだ」
 だから……——。

 カンカン照りの下、私は無我夢中で跳躍していた。私を嘲笑う様に無情に広がる原風景の先に映るアスファルトの蜃気楼。途中鼻を啜る。苦しくなんかない。何もないこの道を何度往復したか。忘れた。それくらいが丁度いい。曲がり角には猫が居る。いっつも私を見守るみたいに。興味無さそうに欠伸するが。私が走ると猫はやってくる。そんな気がする。誰が為に走る。太腿がまるまった猫の為に走る。唯一の観客だ。誰が為に走る? 自分にもわからない。けれど、私の走りは陽の目を浴びる。必ず。その時までは猫の前を何千何万と通過してやる。猫が居なくなってもお前を感じてオマエの前を通り過ぎてやる。幾千も幾万も。その日が来るまで。必ず訪れるのだから。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?