TheBazaarExpress56、誰も見たことのない青空を求めて~ピアニスト辻井伸行編

   世界のクラシック・シーンの厳しさを改めて垣間見たのは、ピアニスト・辻井伸行のアメリカ合衆国コロラド州・アスペン音楽祭での演奏会に同行取材した時のことだった。

 辻井の到着は予定より1日遅れ、演奏会のわずか23時間前のこと。同行して来た母・いつ子に聞くと、「出発直前までビザが降りなかったので、演奏会はキャンセルかもしれないとすら思ったんです」と言う。

 しかも主催者から渡された飛行機のチケットはエコノミークラス。途中乗り継ぎをしながら、約16時間ものフライトだった。

 アメリカでも指折りの高級高原リゾート地のアスペンだが、トップシーズンは冬場だ。6ブロック四方の小さな町には、夏場は避暑客もそれほど多くはなく、なにより街中に音楽祭の幟やポスターも見られない。

 コンサート会場は、アスペン・ツリーと呼ばれる白樺林の中にあり環境は抜群だが、巨大なテントで密閉構造ではない。夕方6時からの開演時には、高原の豊穣な陽光がステージにまで差し込んでくる。

 辻井はこの日、夜7時にホテルに到着後すぐに会場入りしてピアノ選び。夕食が終わったのは深夜で、翌日は午後1時からリハーサル。それも本番のステージは使えずに、地下のピアノ庫で行われた。さらに言えば、毎回の出演料は、辻井が視覚障害者で介護者が必要なことを考えると、ギリギリ黒字という程度のものでしかないとも言う。

 日本国内では「日本人初のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール優勝」「3年間の世界ツアーが保証された」と大変な騒ぎだが、その実態は、長時間の移動と過酷な環境、そして時差ボケや慣れない食事といった異文化との闘いでもある。

 けれど辻井は、あくまで屈託がない。

「ボクは時差ボケもないし何でも食べられるから大丈夫です。今夜は何を食べようかな」

 ピアノ選びに行く車中でも、演奏曲のことになると身体を揺すりながら話し始めた。

「アンコールにはびっくりするような曲を用意しましたからね」と、含み笑いを見せる。

 周囲が「のぶりんダンス」と呼ぶこのウェービングが始まるのは上機嫌な証拠だ。すでにその脳裏には、客席総立ちのスタンディング・オベーションが見えているに違いない。

 とはいえ、この日同行したレコード会社エイベックス・クラシックの浅野尚幸には、心配なことが一つだけあった。

―――会場内に西陽が差し込む中で一曲目のショパンの「子守歌」に観客は集中してくれるだろうか。

 現地に来てみると、辻井伸行の情報があまりに少ないのも気がかりだった。チケットも、2000席のホールで完売とは言えない状況だ。しかもホールの周囲の芝生では、ワインや食べ物を持ち寄って、キャンプ用の椅子に腰掛けてテント内から漏れてくる音を楽しもうというキャンパーのような人たちも大勢いた。

   はたしてこの環境で、極東の国からやって来た名前も知らないピアニストの演奏を、観客は集中して聴いてくれるのだろうか――。

   ところがいざ本番の演奏が始まると、浅野はそれも杞憂だったことに気付く。約5分の小品ながら、デビューCDの一曲目にも刻まれた高音が印象的な繊細なメロディが響き始めると、会場中の聴衆の意識は完璧に演奏に向かい始めた。

 完全なる静寂の中を、ヴァン・クライバーンをして「まったくの奇跡、神業のような音楽」と言わしめた大粒の真珠を思わせる音の粒々が、一音一音輝きながら流れていく。

 振り返れば10年前。小学5年生の時に出会ってから、辻井は私のインタビューに対して「この曲は難しい」という言葉を使ったことがない。どんな曲を前にしてもそれが美しいか否か、それを弾きたい気持ちが沸き上がるか否か。それだけが辻井の演奏の基準だ。

 つまり辻井の中には絶対音感の他にもう一つ、「純粋音感」とでも呼ぶべき美の基準が宿っている。そう思う以外ない。

 けれど皮肉なことに、この「才」はつい3年ほど前までは辻井の弱点とも言われていた。

   辻井が8歳の時から12年間レッスンを続け、17才の誕生日直後に出場したショパン・コンクールには一カ月間ワルシャワに帯同して指導した師の川上昌裕は言う。

「ショパン・コンクールの準備のために、私は当初いろいろな演奏家のCDを聴かせました。ところが不思議なことに、伸君は誰のCDを聴かせても全く影響されない。こう弾きなさいと言われたらそう弾くことができるけれど、じゃあどう弾くの? と言われたら希望や欲求がでて来ない。純粋無垢。真っ白なんです。コンクールではそれがどう評価されるか、そこが問題だと思っていました」

 この頃の川上の課題は、技術を教えて演奏に「色」をつけることはすまいということだった。辻井自身が成熟して、内面から本当の「色」がでてくるまで、我慢に我慢を重ねて待とうという指導方針を貫いた。

   アスペンでの演奏会。「子守歌」の後半部分の美しいメロディラインを奏でながら、辻井は頭を左右に振り、身体も大きく揺すり始めた。演奏中も、こののぶりんダンスが出てくると絶頂の証拠だ。

 川上だけでなく、歴代の辻井の師たちは、奏法の常識にはないこの癖を誰一人治そうとはしなかった。川上は言う。

「教えて身につくものよりも、その人の良さが出てくるのが一番強い。芸術とは、自分で掴んだものでしか成果は出ないんです」

 思えば辻井を育てたこの教育方針は、ピアノの師だけではなく、二人三脚で20年間歩んできたいつ子が実践した子育てでもある。その方針ゆえに、いつ子はピアノ界でも視覚障害者の世界でもある意味で異端だった。

ここから先は

4,039字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?